鈴生リノ想イ
――
空ヲ失ッタ僕ラハ――
――
何処ヘ辿リ着クノダロウ――
First
Chapter. 蒼穹の中 ――Who are you ? ――
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
晴
れ渡った空はただ高く、そして遠くに入道雲を備えている。何も無いと言っても良いほど田園風景の続く道を、大きなバックを担いで汗を流しながらチサトは歩
いていた。
「こんな辺鄙な所に……何があるっていうのよ……」
普段は快活な瞳は荷物の重さと茹だる暑さに負け、
既に死んだ魚一歩手前のような目をしている。とはいえ、彼女の格好は既にタンクトップにハーフパンツといった軽装備であり、それ以上肌を曝け出せる場所と
いうものはほとんどなくなっていた。
じりじりと照りつける太陽と、周りに樹木は無いのに耳に入る蝉の声が更に暑さを助長させていた。
「……
帰ろうかしら……」
日陰になりそうなものが無い、そして車も小一時間通らないアウトバーンの様な道で一息つき、彼女は小さく溜息を吐
く。
そうもいかないということを理解していながらも、文句だけが口からついて出ていた。
科
学技術が日進月歩し、エネルギー問題が叫ばれていた以前よりも、太陽光エネルギー技術の発展が目覚ましかった。原子力発電に頼っていたニホンも、今では格
安となった太陽光プレートを主に使い、現在のエネルギー事情は九十パーセントが太陽光に委ねられている。そして、戦争に塗れていた世界も今では状況は安定
し、宗教に関わる小規模な争いはあるものの、ほとんどの地域では戦争という行為は無くなっていた。
世界は今、理想といえるほどに平和
だ。
ぶつぶつと文句を言っていたチサトだが、バックに入れていた水筒で水分を補給すると、再び荷物を持って歩き
出した。彼女が向かっているのは、とある発電研究所。
太陽光エネルギー学の権威者、水元博士のいる研究所での、アルバイトが目的であ
る。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
辿り着いた建物は、権威者がいるとい
うのに相応しい大きさをした立派な建物だった。結局最寄り駅から歩き続け、一時間以上炎天下を歩いた彼女は既に疲労困憊していたが、事前に連絡をしていた
為に受付でもさほどぎょっとされずに中へ通して貰えた。
研究棟の立ち並ぶ、その見知らぬ応接室に通されたチサトは周囲を見回して観察
しながら、だらしなくタンクトップを摘んで火照った体をさましていた。窓の外を見てみると、通ってきた道が遥か遠くへと続き、全く町の姿など見えない。
「そ
んなに物珍しいものかい?」
ドアノブの回転する音と共に、聞き覚えのある声が耳に入った。振り返ってみると、そこにはまだ三十路過ぎ
と見える男が苦笑しながら立っている。身長は女子にしては大きいチサトより更に頭二つ分は大きく、日本人男性の平均をゆうに越えているようだ。そしてその
身体を包んでいるのは白衣なのだが、着古されていて至る所に皺が寄ってしまっており、胸には名札がついており、『所長』という文字が彼の名字の後ろにつけ
られていた。
「こんな所に研究所作る叔父さんの気が知れなくってね」
そんな彼の苦笑に対して肩を竦めて見せたチ
サトは、彼のことを叔父さんと呼んだ。
この電力研究所の所長であり、太陽光学の権威者である水元博士を、だ。
「元
気そうで何よりだよ、ちぃちゃん。前にあったのは、お祖父さんの三回忌だったか?」
「もう二年前よ、それ。あれから連絡してこないか
ら、母さんも心配してた」
呆れた様に目を数度瞬かせ、そして小さく笑ってみせる。そんな彼女に苦笑を強めた水元は椅子に座ってタバコ
に火をつけた。
「……いきなり連絡してくるから驚いたぞ? 家出でもしてきたのか?」
暫く窓の外を見ていたチサ
トも、彼の真面目になった口調を聞いて向かい側に腰を下ろす。
「別に家出なんかじゃないわよ。……あたしもいい年だし、そろそろ社会
勉強を、と思ってね」
「で、叔父さんを頼ったわけだ」
水元の言葉にばつの悪そうな表情をするチサトだが、不意に
頭を下げた。
「御願い! 食堂の皿洗いでも何でもいいからっ! この夏の間だけでも置いて下さいっ!」
社会勉
強、というチサトだが、実質的には家出の様なものだった。高校を卒業して簡単なアルバイトをしていた彼女だったが、そのフリーター生活を母に咎められ、喧
嘩をして家を出てきたのだ。
拝むように手を合わせた形で頭を下げているチサトを無言で見ていた水元だったが、タバコを一息大きく吸う
と、煙を吐き出しながら微笑んだ。
「あいにく皿洗いの仕事は無いが……、一つだけ空いてる仕事がある」
「何ッ!?」
彼
の言葉に異様なまでの反応を示し、勢いよく頭を上げたチサトが聞いたのは考えもつかなかった仕事だった。
「子供
のお守り、だ。出来るかい?」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
水
元に連れられて歩き、“お守り”をする相手の話を聞く。
「まぁ、何ていうか……ココで働いている子の従兄弟に当たる子なんだけどね。
御両親を亡くして従兄弟の子が働いているココで預かることになったんだ。といってもそこまで小さくもない。だいたい十歳くらいだと思うんだが、会話が成立
たなくてな。というか、会話すら出来ない(、、、、)。こちらの言葉に反応を示さないからね」
ちょうどあった空き部屋を与えて面倒を
見ているとのことだ。会社で一人の社員の面倒をそこまで見るのもおかしな話だが、所長であり社長でもある隣に立つ男の性格を考えてチサトはありえなくは無
い、と一人得心した。
「その子、名前は何ていうの?」
「ソウ、というらしい。僕も何回か見たことがあるが、正直
な話、どうしたらいいのか全く分からないよ」
「結婚してないからわからないだけじゃないの?」
「それもあるかも
な」
他愛ないやりとりをしているうちに、どうやら到着したらしい。突き当たりに真っ白に塗られた両開きのドアが見える。
(な
んだろう、この違和感……)
別段特に変わった装飾がなされている訳でもないのに、チサトはその眉根を小さく寄せて扉の前で立ち止まっ
た。子供がいる、というだけにしては大層立派な両開きの扉で、子供の力では開けられなさそうなほど重そうに見えた。
水元はそんなチサ
トの様子には特に気づいた様子も無く、ドアノブに手を掛けて扉を押し開く。
「さぁ、入って」
促され中に入ったチ
サトは、まずその瞳を眩し気に細めた。事実、蛍光灯の電気のみで歩いてきた暗い廊下とそこは全てが違って見えた。
――
白。
扉もそうだったが、中の様式も全て、白。
壁も、タンスも、本棚も、カーペットも、何も
かも。
そんな、清潔感を越えた、ある種異常と見える部屋に、異なる色が一色。若草よりも保護色をした動物よりも鮮やかな、
翡
翠(エメラルド)。
蛍光灯の光を反射して眩しい白室に、宝石の様な鮮やかな色が在った。
「眩
しかったかい? 彼が、ソウだ」
瞳孔が収縮し、ようやく慣れた頃に、水元の声が耳に入る。緑色の物体を指差し、そう言っていた。
「あ
れ……染めてるの……?」
輝きを放っていた緑。
それは、小さな少年の髪だった。
年齢は十歳
くらいだろうか。
抜けるような白い肌に、白を基調とした和服を着て床に本を広げている。ざっくばらんに切られ、耳を隠すように伸ばさ
れた髪は梳かされている様子も無いのに綺麗な輝きをしており、染めなければあり得ないその色と、染めでは出ない艶やかな髪をした少年を見て、チサトは小さ
く呟く事しか出来なかった。
「いや、伸びても変わらない所から見てもどうやら本来の髪らしい。……僕も驚いているんだけどね」
こ
の星の何処を探したって、そんな鮮やかな髪色をした種族などいるわけが無い。だとしたら、この子供は何なのか。
部屋に二人入ってきて
も振り向きもせずに本を眺めている異色な存在であるソウに気味悪さを感じるも、チサトはその場を離れようとはしなかった。
「耳が聞こ
えない、とかそんなことはないのよね?」
小声とは言え、小さな一室での話し声が聞こえていないわけが無い。なのに、こちらを気にする
様子の無いソウが、何かしらの障害を持っているのではないか、と思ったのだ。
しかし、水元はゆっくりと首を振った。
「い
や、一応附属の病院で検査したんだが異常は無い。身体的にも常人と変わらないよ。あの、髪と瞳以外はね」
「目? 目も違うの?」
扉
に対して背中を向けるソウの瞳をチサトはまだ見ていない。だが、水元の口調からすると、その瞳もまた“異常”らしい。
近づいてみてご
らん、とチサトの背中を軽く叩いた水元に彼女は再び促され、無言の少年に近づく。
「こ、こんにちは……」
自分よ
りも圧倒的に幼い子に話しかけているにもかかわらず、チサトの声は硬い。緊張がそのまま現れ恥ずかしさで頬が少し紅潮するのがわかった。
「ソ
ウくん、よね……? チサトっていうの、よろしくね?」
話しかけても相変わらず視線を本に向けたままのソウの顔を覗き込み、チサトは
そのいわく付きの瞳を目にした。
吸い込まれる様な漆黒と、眩いほどの鮮緑瞳(ターコイズ・アイ)。
オッド・アイ
と呼ばれる、互い違いの瞳だ。
チサトを見つめている訳でもないのに、その瞳は彼女を惹きつけて離さず、魅入られる、というものを彼女
は初めて経験した。瞳の色に引き寄せられる、というだけではない。本を読んでいるように見えるのに、読んでいない。視線を本に向けているのに、文字を追っ
ているように見えない。彼女には、ソウが全てを透かすかのような、遠くを見る目をしているように思えた。
「……正直、面倒見る、とか
以前に面倒見させて貰えるかどうか、からじゃない?」
話しかけても無反応なソウから離れ、水元に向けて肩を竦めてみせた彼女だが、そ
の顔は何故か楽しげに微笑みを浮かべている。実際、この研究所に来る前にチサトは掛け持ちで幾つものアルバイトを経験してきており、中には孤児院で子供の
世話をするといった特異なバイトもしてきていたのだ。孤児院の子供達の中にはソウほどではないにしろ、似たように心を閉ざしてしまった子供たちもいた。そ
の時の経験が、彼女にソウの面倒見というこの異質な仕事を引き受けさせる思いを強めていた。
「その顔だと、引き受けてくれるみたいだ
ね」
「どこまでやられるかわからないけど、ね。やれるだけのことはやりたいと思うわ」
一度ソウを顧みながらチサ
トがそう言うと、水元はどこか楽しげに頷いて彼女の肩を軽く叩く。
「それじゃあ、決まりだな。悪いが早速今日から泊り込みになるけ
ど、問題ないね? ちょうどここの部屋の隣が空いているし、そこを君の部屋にするから好きなようにやってくれ」
「好きなように、っ
て……。ようはアタシとソウくんが仲良くなって他の人ともそれなりに話が出来るようになればいいんでしょ?」
「そんなところだな」
さ
て、と彼は白衣のポケットを漁って一本タバコを取り出した。口に咥えるも火は点けず、部屋の時計に目を向ける。
「ちょっと今忙しい時
期でね。僕もそろそろ研究室に戻んなくちゃならない。悪いけど、僕が案内できるのはここまでだ。もし分からないことが出てきたら、受付の女の子にでも聞い
てくれ。もうちぃちゃんが採用になっているのは知ってるから、色々教えてくれるはずだよ」
「採用になったのを知ってるって……。アタ
シが連絡入れたときからもう決めてたってことじゃないっ!」
初めに通された応接室からずっと一緒に行動をしていて、その間に誰かとす
れ違ったり水元が連絡を入れていたりはしていなかった。つまり彼女の採用は、彼女が連絡を入れた時点で決まっていた、ということだ。
「ほ
んと、叔父さんはいい性格してるわ……」
「誉め言葉として受け取っておくよ」
顔を見て溜息を吐いたチサトに彼は
一笑すると、入ってきた白い扉を開けて部屋から出て行った。
一人残されたチサトは、どこかあの叔父に上手く動かされたような思いに駆
られて数分ぼうっとしていたが、ソウのいる方から立った物音を聞いて慌ててそちらに視線をやる。どうやら先程見ていた本を読み終わったのか飽きたのか、ソ
ウは本を本棚に戻して新たに別の物を手にしようとしていた。
ソウの身長には相応しくない、大きな本棚には全て白いカバーが掛けられて
おり、書名は誰かの手書きなのかサインペンで背表紙に書かれているだけだった。
六段ある本棚の一番下の段にさっきまで読んでいた本を
しまうと、ソウはしまった本の隣に収まっていた本を手に取る。チサトのことなど空気と同じだと思っているのか、全く気にする様子も無く再び先程と同じ格好
で本に目をやり始める。
「本、好き?」
ソウの隣に膝を屈めて座り、チサトは彼の横顔を覗き込む。人間不信に陥っ
てる子ならば顔を覗き込まれればそれが嫌で顔を背けるなり何なりの反応を見せるものだが、ソウには全く関係ないらしい。反応を見せるどころか、読んでいる
のかも分からないページを一枚めくる。
彼の読んでいる本に目を移すとそれは童話のようで、可愛らしい水彩画と共に平仮名ばかりの文字
が柔らかく描き出されていた。年齢的にはもう少し活字のものを読んでいても不思議ではないが、彼という人間そのものが異質的なものであるが故、チサトはそ
れ以上踏み込むことが出来ない。
「それ、何ていう本なの?」
返事が無いことを見越してさらに声をかける。いつか
は反応してくれる、そういう期待を込めてチサトは無視され続けても彼の隣で声を掛け続けた。
部
屋の中でも高い位置にある窓から、夕日が差し込む。赤というよりも朱に近く、朱よりも茜に近い鮮やかな夕焼けがチサトの瞳に映った。
と
うとう丸一日、ソウがチサトの呼びかけに応える事無く過ぎていき、チサトも小さく溜息を吐いて立ち上がる。
「また明日、ね」
近
寄りがたい雰囲気を崩さないソウに微笑みながら、彼の頭に触れようとしたその時――
「っ……?!」
――バチ、と
いう音と共にチサトの手に痛みが走った。静電気に似た、鋭い痛みだ。慌てて自身の手を見ると、ソウに触れようとしていた掌が強い衝撃を受けた証に赤くなっ
ている。しかし、彼とチサトの間にそんな強い衝撃を受けそうな壁みたいなものは無く、チサトは首を傾げて考えるが、静電気か何かだろうと解釈して変わらず
本を眺めるソウに触れず、部屋を後にした。
割り当てられた部屋に入ってみると、そこに家具
は全て用意されており、デスク・箪笥・本棚・ベッド・バスルーム・トイレと必要最低限のものは揃っていた。
「テレビとかパソコンとか
はないのか……」
とはいえ、一人で生活するには十分すぎる部屋の広さに呆気を取られながらも、チサトはベッドに身体を落とし、小さく
溜息を吐きながら自身の手に視線を移す。
特に異常も感じない、自身の手。
先程ソウに触れようとしたときに走った
痛みはなんだったのかと再び思案を巡らすも、思い当たるものといったら冬によく舌打をする羽目になる静電気ぐらいのものだ。学歴も一般の普通科の高校を出
ただけのチサトには他に考え付くものなど無かった。しかし、夏真っ只中のこの時期に他人に触れようとして静電気を起こすなど出会ったことが無い。謎でしか
ないその不可思議な現象を考えれば考えるほど彼女の思考は空回りするばかりで、一際大きな溜息を吐くと彼女は解き明かすのを放棄した。
ぼ
んやりとベッドに突っ伏していると、不意に部屋をノックする音がした。
「どうぞー」
気の抜けた返事を返すと、ド
アが開かれ見知らぬ女性が彼女に微笑みを向けて近づいてくる。胸に付けられたネームタグを見るとどうやら受付嬢らしい。
「初日のお勤
め、ご苦労様でした。夕食は食堂になりますから御案内しろと所長から言付かってまいりました、生田弥生と申します」
丁寧な言葉と、だ
らしない体勢のままのチサトを目の当たりにしても変わらぬ冷静な物腰をした受付嬢は微笑みを崩さずチサトに手を貸して起こした。
「こ
のような辺境に着いたばかりでお疲れでしょうが、お食事を取らないと疲れも取れませんよ?」
辺境、という物言いにチサトは苦笑を見せ
ると彼女の手を離して自力で立ち上がる。
「あなたの言う通りね。バスも無い辺境についていきなり子供の世話を見ろって言う所長さんは
鬼だわ」
疲れを感じさせない言葉を発したチサトを見て、生田は笑みを強めると、行きましょう、と彼女の前に出てドアを開けて促した。
軽く会釈をして部屋を後にし、生田の後について食堂へ向かう。玄関ロビー近くまで戻り、開かれた扉を抜けると談笑をしながら食事をする白衣姿の人々が集っ
ていた。チサトが中に入ると面々が笑みを浮かべながら手を振ったり会釈をしたりする。
「……なんなの、この歓迎ムードは」
こ
れも水元の仕業だろうか。だとしたら本当に余計なことしかしない、とチサトは口元で愚痴を漏らし、それを傍で耳にした生田は微笑みを苦笑に変えた。
「お
考えの通り、チサトさんがここに来られていることは所長が全員にメールでお知らせ済みです。久々に若い子が来たって男性陣は喜んでましたよ」
「若
いったって、生田さんだってあたしとそうは変わらないでしょう? なんだってこう、叔父さんは余計なことばっかするのかなぁ……」
溜
息混じりにそう呟き、列に並んで夕食を受け取る。並んでる最中にも前から後ろから色々な部署の人に声を掛けられ、チサトは彼らに曖昧な笑みを返すことしか
出来ず、ようやく食事にありつけると思ってもわらわらと彼女らの周りに人は集まってきた。
「あーもう!!
来たばっかなんだから、徐々に馴染ませようっていう考えは無いのっ?!」
質問攻めにあっていたチサトがそう叫ぶと、周囲もそれもそう
か、と笑いあいながら引いていく。落ち着いた食事が取れるようになるには、まだまだ時間が掛かりそうだ、とチサトは机に突っ伏しながらその日一番の大きな
溜息を吐いた。
「私も始めて来た時は同じ様に質問攻めでしたよ。おかげですぐに皆さんと慣れましたけどね」
クス
クスと笑いを零す生田は箸で温野菜をつつきながらチサトに視線を向ける。笑顔の似合う、そして人見知りをしない性質なのだろう。手を振る周りの男共に笑み
を崩さず手を振り返し、そういえば、と話を切り替えた。
「ソウとの初対面はどうでした? やっぱり無関心でしたか?」
「やっ
ぱりってことは、生田さんもそうだったんだ」
弥生で結構ですよ、と柔らかく笑みながら彼女は頷くと、栄養バランスを考えられた夕食を
口に運びながら続ける。
「というより、所長から伺ってるとは思いますが、あの子の従兄弟っていうのは私のことなんですよ」
驚
いて箸を止めたチサトに、あんまり似てないですけどね、と苦笑を返した弥生は話を戻す。
「私たちだけじゃないんです。というより、全
員ですね。あの子の気を引かせることが出来た人は誰もいません」
箸を置き、生田も小さく溜息を吐いた。
「どうし
たらいいのか、全く分からないんですよね。子持ちの方にも試して貰ったんですが、全く変わらずです。まぁ、食事はしっかりしてくれるから元気なんですけど
ね」
「あたし以外にもこの仕事受けた人、いたんだ」
「保育所上がりの方にも見て頂いたし、小学校の先生だったと
いう方にも見て頂いた事があるとも聞いてます。でも、最終的には彼を気味悪がって皆さん辞めていかれましたよ」
子ども扱いのプロすら
諦めたという子供の世話をするのか、とチサトはまた溜息を吐く。若い女性が二人して溜息を繰り返すその姿は、恋愛に関して話しているようにも見える。
「で
も、気長にやっていれば何とかなると私は思いますよ。チサトさんならって、なんとなく思うんです」
「ちょ、そんな期待に満ちた目を向
けないでよっ?! 精一杯やろうとは思うけど、そんな目されてもあたしも困るだけだし」
慌てて首と手を振るが生田は再び笑みを浮か
べ、期待に満ちた目を崩さない。
「逆に言ってしまえば、チサトさんみたいな方があの子の相手をするのも初めてですから、可能性はゼロ
じゃないですよ」
「ま、やれるだけやってみはしますけどね……」
この日何度目か分からない溜息を吐き、チサトは
ようやく食事に手をつけた。
Second
Chapter. 揺れる想い ――What am I doing ? ――
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
煌
々と照る月夜すら届かぬ場所。コツコツと鳴るその足音は一つで、非常灯すら点らない闇に支配された廊下に反響していた。闇の中、明かりも無い廊下を危なげ
無く歩くその音は、突き当たった部屋の前で立ち止まり懐から鍵を取り出す。
かち
鍵
が開かれた音と共に扉が開かれ、その先から薄い光が漏れ出る。必要最低限に開かれたその扉の先に入り込んだ人影が扉を閉めると、再び廊下には深々と続く闇
に包まれた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ソウの部屋を訪れるように
なって、早くも三日が経過しようとしていた。相変わらず本を読んでは棚に戻すという行為を繰り返している彼に、チサトは全く反応を示されていなかった。ど
れだけ声をかけようとも、どれだけ顔を覗き込もうとも全く反応は返ってこず、チサトは精神的な疲れを感じ始めていた。孤児院の子供達も、流石に三日間話し
かけ続ければ何かしらの反応が返ってきたものだが、ソウに至っては初日と全く変わらない。変化が感じられないのだ。
「……あたしがこ
こにいる意味ってあるのかしら……」
ソウに聞こえないよう小さく溜息を吐き、チサトは自室から持ってきたものをふと取り出した。幼い
頃から考え事をするときに彼女が用いるものだ。
四辺の長さが統一された、色紙。俗に言う、折り紙だ。
本を読み続
けるソウの横で彼女は、どうするべきなのだろうかと思案を巡らせながら指を動かして紙を丁寧に折っていく。三角形に折り更に折り、思考に集中している間
に、彼女の手の中には一羽の鶴が折られていた。完成された鶴を軽く見つめて彼女はそれを床に置くと、新たな折り紙に手を伸ばして再び鶴を折り始める。ソウ
が隣にいることも忘れてひたすら無心に鶴を折り、ふと我に変える頃には床に置かれた鶴は十羽になろうとしていた。
「ちょっと折り過ぎ
たかな」
苦笑を浮かべ、隣に視線をやると、やはり変わらず本を読むソウの姿があった。少しは反応があるかと思いきや、全く変わらない
ソウに苦笑を強め、チサトはまた折り紙に手を伸ばす。
「お互い好きなことやってよっか」
ソウに微笑みを向け、チ
サトは先程よりも軽い気持ちで鶴を折る。
(焦っても仕方が無い。自分にできる事を精一杯やればいい、ってね)
ソ
ウの無表情を見つめながらチサトは白紙を鶴に折り上げていった。
ソウの隣でひたすら鶴を折
り続け始め、四日。チサトが研究所で生活を始めてから一週間がたとうとしていた。今日も今日とてお互いに無言でソウは本を読み、チサトは鶴を折り、白一色
だった部屋が折り紙の鶴の為に一色だけではなくなり始めている。青・赤・黄・緑……。様々な色で折られた鶴が部屋の壁に吊るされて色彩を与えていた。
「千
羽鶴達成っ!」
折り重ねられた鶴を落ちないように吊るし終え、チサトは達成感に溢れた声を上げながら部屋に寝転がる。
「一
日、二百五十羽。結構大変だったわ……」
一日中鶴をひたすら折り続けた彼女は仰向けに転がると、手を眼前に持ち上げて二度三度握った
り開いたりをくり返し達成感に浸った。と、不意にその手を照らしていた電灯が隠れる。
「……ソウ、くん?」
隣で
本を読んでいたはずのソウが、彼女を覗き込んでいた。無表情であることは変わらないが、初めてソウが彼女の見ている前で本を読むこと以外の反応を示してみ
せている。一週間全く会話どころか目も合わせてくれなかった相手が自身を覗き込んでいる事実に喜びを感じると共に混乱していると、ソウはチサトから目を離
して吊り下げられたばかりの鶴に視線を移した。千羽鶴が何なのか知らないのか、指を指して首を傾げてみせると、チサトは身体を起こしてソウに微笑んでみせ
た。
「千羽鶴っていうの。知ってる?」
首を振り、チサトにオッド・アイを向け無表情ながらも関心があることを示
すソウは、千羽鶴の前まで行き、自身と同じぐらいの高さになった鶴の群れを見つめていた。
「叶えたい事があるときに、鶴を千羽折って
それに願い事をかけるの。叶うかどうかは分からないけど、それでも何もしないよりずっといいと思わない?」
高校野球の悲願達成に向け
て。重病人が回復するように。人は願いを神だけでなく様々なものに託していく。
「あたしがコレを作ったのは、ソウくんと仲良くなりた
いから、かな」
特に理由も無く作ってたんだけどね、と笑いソウの手を取る。
「初めて目を合わせてくれたね」
膝
を屈めて視線を合わせソウに微笑むと、彼は取られた手と彼女を交互に見つめて不思議そうに首を傾げた。
「あたしの言ってる事は、わか
る?」
難しかったかもしれない、と内心で苦笑しながらソウの手を握ると、彼の体温が伝わってくる。
夏だというの
に部屋から出ない所為で色素の薄い肌でも、手からは温かな彼の体温が伝わり、何処を見ているのか分からなかった色互いの瞳も今は確かにチサトに向けられて
いる。
長いようで短かった一週間。彼女は感情を何処かに置き忘れた少年の心の一片に触れた。
夕
刻。鶴の折り方をソウに教えたチサトは彼の部屋を離れて、自室には戻らず食堂に行き、そこに生田の姿を見つけると声をかけた。
「やっ
たわよ、弥生さん」
不敵に笑みを浮かべ、チサトは開口一番にそう言った。始めは何のことか理解できずにチサトの顔を見つめるだけだっ
た生田だが、何を指しているのかに思い当たり、口に運んでいた箸を止める。
「やったって……ホントですかっ?!」
笑
みを崩さず大きく頷いたチサトを見て、生田は彼女の手を取って瞳を輝かせた。
「すごいじゃないですかっ!
だから言ったんですよっ! あなたなら出来るって!!」
興奮しているのか軽く息を荒立てながら取った手を振り、喜びを露わにする生田
に少々戸惑いながらチサトは苦笑を返す。
「やったって言っても、やっとあの子があたしに視線を向けてくれるようになったってだけよ。
まだあの子の声を聞いたわけじゃないし……」
「それでも凄いですよ! 一月どころか一週間で彼の視線を向けさせるなんて!
後で所長に連絡しておきますね!」
破顔して自身のことのように喜ぶ生田に苦笑を強め、チサトは横から声をかけてきた開発課の男と会話
を交わし、内心で達成感を噛み締めていたが、ふとソウの顔が頭を過ぎった。
「弥生さん。ソウくんって食事は何処でしてるの?」
食
堂に来る時間はこの一週間で割合まちまちになっていたが、ソウがココで食事をしているのを見たことが無い。
「ソウですか?
あの子、始めはここで食事をしてたんですけど、今じゃ部屋から出なくなっちゃって……。スタッフがあの部屋に持っていってあの部屋で食べてるはずですよ。
夕食なら時間は大体七時ぐらいだったと思います」
「一人で、食べてるってことよね……」
箸を止めて盆に置き、自
身が食べた後をじっと見つめていたチサトだが、急にその盆を持って立ち上がる。
「あたし、あの子の部屋で食べるわ。一人で食事って、
寂しいものじゃない?」
自嘲気味な笑みを浮かべるチサトを見て、少し眉を顰めた生田だが、それ以上は何も言わず、彼女を見送った。
「な
んつーか、面倒見のいい嬢ちゃんだなぁ……」
「何か思うことがあったんですよ、きっと」
同じ様にチサトを見送っ
た開発課の名札を付けた男の呟きに生田は彼女が消えた廊下を見つめながら言葉を返した。
白
室への道は、夜になると数少ない蛍光灯が照らす暗い廊下へと変わる。北側に立てられている為に、月明かりも差し込まない薄暗い廊下には歩く足音がコツコツ
と鳴り、何処かのホラー映画にでも迷い込んだかのようだ。不気味さを感じながらもチサトは自身の部屋を通り過ぎ、すぐ傍にあるソウの部屋をノックした。
「ソ
ウくん、入るわよ?」
案の定返事は無いので、声をかけてノブを回し中へと入る。暗い廊下のすぐ後に入り込んでくる白室の眩しさに少し
目を細めると、ソウの緑色の髪が見えた。
「一緒にご飯……」
食べようか、と続けるつもりが、その先を口に出来な
い。ドアに背を向けているが、彼は食事をしている素振りが無く、手元で何か作業をしているのが動きで分かった。
そして、何をしている
のかも、チサトには分かった。
「まだ……折ってたの?」
傍に持ってきた食事を置き彼の隣に腰を下ろすと、そこに
は彼女が作った見本をまねようと無表情ながら苦心しているソウの姿があった。何回も何回も折り直したのか、幾つも折り目のついてしまった折り紙をもう一度
開き直して折り直していくその姿を見て、チサトは何も言えずじっと彼の指先を見つめていた。
「そこは、こう」
順
調に折っていた指がピタリと動きを止め、そこから先を折れずにいた彼の手に触れると、チサトは彼の手に自分の手を重ねて先を折る。ずっとそこで止まってい
たのか、先はチサトが動かさなくてもソウは拙い手で折り続けていき――
「出来たわね」
――小さな手の上に、折れ
目だらけの鶴が一羽。
手元にあった折り紙で手早く鶴を折り、じっと自身が作り上げた鶴を眺めていたソウの手にそれをそっと置いてや
る。
「ほら、あたしがつくったのと一緒でしょ?」
折り目だらけの緑色の鶴と、水色の鶴がソウの手で向かい合って
いた。
ソウはそれらを見比べるように眺め、ふとチサトに目をやり、一度だけ頷いてみせる。その姿にチサトは満面に笑みを浮かべると、
とうに冷めてしまった夕食を軽く掲げた。
「ほら、いい加減あたしもお腹すいたし、ご飯食べよ?」
自分のより量の
少ないソウの夕食は無機質な置物のように机の上に置かれていたが、チサトはそれを彼の前に持っていき箸を渡す。何かを考えるかのように一度止まっていたソ
ウだが、箸を伸ばして黙々と食事を始める。その姿に淡い笑みを浮かべ、チサトも自身の残りに箸をつけた。
◆
◆ ◆ ◆ ◆
一人で食事を終えた生田は、階段を昇って最上階へと向かっていた。建物の構造は真北を向い
て凹の字を描くように作られているが、所長室のある第一棟はその中でも南側に立てられており、一番古い為か高さも他の棟より低くなっており、階段しかない
のだった。
最上階といってもたかだか四階だ。若者からすれば少し息が上がる程度で上がって来れる。階段を昇りきれば目の前に所長室が
あり、生田は少し息を整えると軽くノックをして中へと入る。
「チサトさんに進展がありましたので、御報告致します」
部
屋の中ではデスク上で書類と向き合う水元の姿があり、彼は生田の言葉に一度だけ視線を向けると、片手を彼女に向けることによって先を促した。
「彼
女がこちらで被検体ナンバー7(セヴン)と交流を始めてから一週間になりますが、彼の精神面に彼女が認識されたようです」
『報告』を
耳にしながらも水元は変わらず紙の束から目を離さず、時折書類の横にメモ書きをしている。
「これまでで最速となりますが、会話などと
いったものは未だ見られず、状況はほぼ変わっていないと言えるでしょう。とはいえ、彼女自身にも変化が見られ、本日の夕食は被検体の元でしておりました」
足
を揃えたまま淡々と『報告』する生田の言葉が止まると、ようやく水元が頭を上げて彼女と視線を交わした。その口元には柔らかな笑みが浮かんでおり、『報
告』を喜んでいるようにも見える。
「中々いい具合じゃないか。やっぱりちぃちゃんに何か感じるところがあったんだろうね。あの子
――7(セヴン)もきっと、今月中には更に変化するだろう」
喜びの笑みから愉しみの笑みに変わり、水元は口元でくすくすと笑った。生
田はそんな彼を目の前にしながらも表情を変えずにただ彼の次の言葉を待っている。
「……7に、少し変化があったといったね。これは始
まりなんだよ。これからが楽しみじゃないか」
「……引き続き、彼女と7の監視を行います。7はまだ彼女に対して一度しか力を使ってい
ませんが、いつ暴走するともわかりませんので」
ほとんど動かなかった生田の表情が少しだけ眉を寄せるが、水元はその変化に気づかず再
び書類に視線を戻していた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
早朝に目覚ま
し時計のベルが鳴り響き、チサトは寝台で蠢いて枕元に手を伸ばす。振り上げた手は鳴り止まぬ目覚まし時計を寸分違わず捉えてベルを沈黙させた。五分ほど夢
心地のまま寝台に転がっていたチサトだが、自身に喝を入れて起き上がると手早く着替えて外へ出る。
夏とはいえ、まだ早朝のために心地
よい風が彼女の髪を揺り動かして目覚めを助けると、チサトは大きく伸びをして徐に屈伸をし始めた。体操が日課となっている訳でもないにもかかわらず彼女が
準備運動を始めたのには勿論訳があった。
「久々だし、ね」
これから自分が行うことが楽しみであるのか、彼女は微
笑みを浮かべながら身体の固まっていた筋肉を解していき、軽く汗ばんできたところで立ち上がって瞳を閉じる。
耳に入るのは風の囁きと
生命力に溢れた虫の声。閉じた瞳に差し込むのは強い陽の光。肌を撫でる柔らかな風は都市部のアスファルトで熱された生温いものではなく、ずっと身を任せて
いたいと思うほどの心地よさ。
精神統一、と呼ぶほどではないにしろ自身の呼吸音が聞こえるぐらいまでに集中力を高めると、チサトは
ゆっくりとその瞳を開いて前を見据える。敷地の意味を含めて外界と隔てる様に建てられた壁と門が視界に入り、それらを睨みつけながら一度だけ深呼吸をし
た。
「っせいッ!」
だらんと垂らして自然体にしていた腕が、彼女の発した声と共に跳ね上がり、虚空に向かって突
き出される。
「せいッ、はっ!」
握り拳はつくらずに指の第二関節まで折り曲げられた手はチサトの声と共に虚空を
打ち、彼女の動きは次第に激しくなっていく。
上段蹴り、中段二段蹴り、蹴り上げた足が地に着いたその反動を用いての後ろ回し蹴り。
ス
ピードが乗ってくるとそれは最早素人の動きではなく、達人まではいかずとも玄人の動きそのものであった。柔らかな身体だからこその動きである上段まで振り
上げられた足は踵を虚空に向かって振り下ろされ、足が地に着いたとき、チサトはようやくその動きを止めた。
一分少々の一人稽古を止
め、肺に残っていた空気を少しずつ吐き出す。荒くなりそうな呼吸を肩ではせずに腹で行うと、間もなく呼吸は荒立つ事無く治まった。
「お
見事ですね」
「弥生さん……」
振り返ると、そこには既に受付嬢らしくスーツを着込んだ生田の姿があった。夏だと
いうのに半袖ではなく長袖を着込んでいるその姿は見る者からすれば暑そうに見えるが、彼女の額に汗などは浮かんでいなかった。
「空手
か何かやっていらしたのですか?」
芝生の上を歩いて近づいてくる彼女に照れ笑いを向けると、チサトは肩の力を抜いて研ぎ澄まされた感
覚を解く。
「まぁ、ね。中学と高校で空手部だったのよ」
珍しいでしょ、と笑うと、生田も首肯を返し徐にスーツの
上着を脱いだ。
「実は私も、少し齧ってるんです。よければ少し、約束組み手でもしませんか?」
履いていたハイ
ヒールを脱いできちんと揃えると、彼女は軽く前突きを披露して半身に構える。色の白く、女性らしさに満ちた生田が武道も心得ていたことに少々驚いていたチ
サトだが、出された突きと構えを見て彼女も玄人並の実力であることを知ると、再び自然体に構え直した。
「それじゃ少し、お手合わせ願
えますか?」
「喜んで」
朝日が高く上がり始めようとする中、空を切る音が耳元でし、遠くでは蝉の鳴き声が聞こえ
始めた。先程よりも更に笑みを深めたチサトは、生田の口元にも小さな笑みが浮かんでいるのを確認すると、一層楽しげに約束組み手に耽っていった。
生
田と数十分約束組み手を行ったチサトは彼女と別れると一旦自室に戻ってシャワーを浴び、昨晩と同じ様に朝食を持ってソウの部屋を訪れた。中には一人で食事
を開始していたソウがいて、チサトは上機嫌で彼に声をかける。
「おっはよーっ」
チサトが声をかけると、もそもそ
と食事をしていたソウが箸を止めて視線を彼女に向け、色違いの瞳の中にはチサトの姿が映っていた。
(何だか、ペットみたいね……)
飼
い主の帰りを待っていた犬の姿を想像し、軽く噴き出した彼女を見つめ、ソウは視線を外すと食事に戻ってしまう。
「ちょっと、折角来た
んだから一緒に食べようよっ!」
慌てて彼の隣に腰を下ろし、チサトは自身の箸を取ると両手を合わせていただきます、と呟いて白米の盛
られた茶碗に手を伸ばした。その姿を横目でソウは見ていたが、特に反応を示さず最後に残っていた味噌汁を啜り、湯気も立たない程覚めてしまっていたものを
飲み干す。そして、やはり無言でその場を離れようとしたが、チサトはそんな彼の腕を掴んで引き止めた。
「食べ終わったら、『ごちそう
さま』って言わなきゃダメよ」
何のことだかわからないのか、彼女に掴まれた腕を見つめ、そのまま固まるソウに苦笑を返し、チサトはと
りあえず座るように彼の身体を軽く引張る。大人しく彼女の隣に再び戻り、そのガラス細工にも見える瞳を彼女に向けると、チサトはソウの頭を軽く撫でて口を
開いた。
「そもそも、あなたが今まで食べていたご飯がどうやって作られているのか知ってる?
ご飯だけじゃなくて、おかずになってたものも……」
箸を置いて一品一品を掲げてみせ、小首を傾げてみせるが、ソウはただそれらをみる
だけで首肯もしなかった。
「このご飯や野菜は農家の人が作ってくれてるの。お肉は牛や豚、鶏ね。ようはね、あたしたちが生きるために
食べているご飯は、他の命を消しているのよ」
ソウに向き直り、チサトは彼の手を握り、真剣な眼差しで彼と視線を交わす。
「つ
まり、あたしたちは他の命のおかげで生きてるの。ソウくんがこの部屋でこうして生きているのも、あたしが生きているのも、ここの職員の人たちが生きている
のも皆、他の命に助けて貰ってるのよ」
チサトの手が小さな手を包み、そこから暖かな温もりが伝わってくる。チサトに魅入られたかのよ
うに視線を外さないソウは、ただ黙って彼女の話を聞いていた。
「だから、食べ終わった後に『ごちそうさま』 って言って感謝の気持ち
を表すの。あたし達のために死なせてしまってゴメンなさい、ありがとう、ってね」
包んでいた手を離し握っていなかった手を取ると、チ
サトは幼い手を合わさせる。
「『ごちそうさま』を言って、食事は終わるの。ほら、やってみよう?」
わかったかど
うかソウの表情から読み取ることは出来なかったが、伝わったはずだとチサトは信じて促した。
チサトの顔と自分が食べ終えた食事を幾度
か見比べていたソウだが、『ごちそうさま』という気配は感じられない。閉じられた口は数分たっても開かれず、チサトは小さく溜息を吐くと彼の手を離した。
「ちょっ
と、難しかったかな……? でも、必要なことだからやってくれるとあたしは嬉しかったな」
無理強いは良くないもんね、と小さく笑い、
チサトは箸を持ち直す。
「――……さま」
「……え?」
「……ごちそう、さま……」
少
女のような、高いボーイソプラノ。
一瞬、聞き間違えか空耳かと思い、チサトは呆ける。しかし、目の前にいる翠色の髪を持った少年は、
確かに言葉を発した。
――『ごちそうさま』、と。
無言のままでいるチ
サトを見上げるソウにはっとし、彼女は彼の頭を再び撫でる。
「それでいいの。できるなら、これから毎日やってこうね」
小
さく首肯したソウに微笑みを強め、チサトは彼の奇抜な髪を指で梳き梳かしてやった。
劇的、
とまでは言わずともソウに表れ始めている変化は、自身の日々通っているためだと自負を持ち始めたチサトが、夕刻になってソウの部屋を出ると、生田が彼女の
部屋の前に立っていた。
「弥生さん?」
部屋から出てきたチサトの姿を見て、いつもの柔らかな笑みを浮かべた彼女
は、何やら手に持っていた鍵を彼女に見せるように持ち上げる。クマの縫いぐるみを模ったキーホルダーがゆらゆらと揺れるのを見ながら首を傾げてみせると、
彼女は小さく笑いながら口を開く。
「私これからちょっと車で街に出るんですけど、お買い物とか一緒に如何です?」
「そ
れを言う為に待っててくれたの?」
半ば呆れたような声を出してチサトが苦笑すると、彼女は何がおかしいのか、と今度は彼女が首を傾げ
てしまった。
「置手紙でもして、部屋で待ってれば良かったのに」
「今来たばっかりですし、そろそろ出てこられる
と思ってたので」
行きますか、と再び鍵を揺らし、チサトを先導するように歩き出した彼女の後を、チサトはやはり苦笑しながらついてい
く。
朝とは異なる暖かさの残る空気と、茜色に染まった空が駐車場に出た彼女達を照らし、その眩しさにチサトは目を細めた。上空を見上
げれば、既に白んだ月が出で始めて、その姿を晒している。
「こっちに来てちゃんと空見たこと無かったけど、凄く綺麗なのね」
都
会住まいだったチサトにとって、曇り無い空は新鮮そのもので、夜帳が落ち始める様は素晴らしいものに感じられた。
「ただ田舎なだけで
すよ」
感慨深げに瞼を閉じていたチサトの耳に車のエンジン音が聞こえ、開いてみれば黒塗りの軽自動車が彼女の前でアイドリングしてい
る。
「乗ってください。三十分もすれば街灯で一杯の町に出れますよ」
生
田の言った買い物は極々簡単なもので、文具や化粧品などといった日常用品ばかりを買っていた。化粧に興味の無いチサトはそれを横で見ながら久々に来た街の
雰囲気を楽しむように雑貨店に入ったり既に出回り始めた秋服などを見てはその値段に溜息を吐いたりしていた。
「お待たせしました」
お
香や扇子といった和風な雑貨店に入って並べられいる品物を見ていたチサトが振り返れば、ビニール袋を三つ腕にぶら下げた生田が立っている。職場からの帰り
道に多数の品を買い込んだ仕事帰りのOLのようで、チサトは小さく笑みを零して彼女の荷物を一つ持ってやった。
「幾らなんでも買い込
みすぎじゃないの? 車ですぐ来れる距離なんだから何もこんなに買い込まなくたって」
「車の運転ってあんまり好きじゃないんですよ。
だから、そんなに乗らずにすむようにたくさん買っておくんです」
メモ用紙を懐から取り出して目を走らせながら答えた生田は、リストに
書いたものは全て買い揃えたのか一度メモに対して頷く。
「私の買い物は終わりましたけど、チサトさんは何かまだお買い物しますか?」
「あ
たしももう無いかな。というか、そもそもあんまりお金ないし」
乾いた笑いを漏らすチサトに生田は少し申し訳なさそうに眉を顰めると、
ふと目に留まったものを手に取る。
「チサトさん、こういったお店に入るって事はお香とか好きなんですか?」
彼女
が手に取ったのはコーン型のお香だ。鼻を近づけるのではなく、手で仰いで香りを嗅ぎ、柔らかなその香りに表情を緩めた。
「部屋に香り
がつくからあんまり出来ないけど、あたしはこういうの好きね。金木犀とか水蓮なんかがお勧めよ」
色取り取りに並べられたお香を手に取
りながら、嗅ぎ比べていた生田は、チサトの言葉を耳にしながら、ふと一つの香に手を止める。
「これは……?」
「橙
ね。柑橘系の香りで初めはちょっときつく感じるかもしれないけど、優しい香りよ」
オレンジ色に染められたそのお香を暫く眺めていた彼
女は、それを手に持ったままガラガラだったレジカウンターに行くと、すぐさま新たに袋を提げてチサトの元へ戻ってきた。
「気に入っ
た?」
自室で焚くのだろうと微笑みを浮かべたチサトだったが、生田が持ってきた袋をいきなり手渡されて目を丸くする。
「今
日、お買い物付き合って頂いたお礼です」
「そ、そんな悪いわよっ」
ラッピングなどはされていない袋を返そうとす
るチサトの手を押さえて持たせる生田は微笑み、彼女の手を取った。
「この時間じゃ、もう食堂も閉まってますから外で夕食取りましょ
う?」
「え、ちょっとっ?!」
いつになくアクティブな生田に戸惑いながらもチサトは彼女に手を引かれるまま夜の
街を駆け、幾つもの袋を取りこぼさない様にバランスをとるので精一杯だった。
生田に連れら
れて入った店は、路地裏にある小さな洋食店だった。こじんまりとしながらも内装は落ち着きのある茶系統で綺麗に整えられ、人も多く入っている。しかし、ざ
わつきは少なく店内の雰囲気に合った静かな客層が多いようだ。
「落ち着きがあって好きなんですよ、ここ」
奥の方
へと席を取り、二人が座るとすぐに清潔感のあるウェイトレスがやってきておしぼりとメニュー表を置いていく。
「何にされます?」
暗
めの照明が店の雰囲気を更に盛り立てていると感じていた矢先に生田がチサトを見ながら声をかけ、慌てて彼女はメニューに目を移した。
「弥
生さん、もう決まってるの?」
「えぇ。、私はこのお店のメニュー大体は食べつくしてますから」
微笑みながら、既
に常連の域に達している者の台詞を口にした生田に苦笑してみせ、チサトは整然と並べられた文字に目をやる。
オムライス、ハヤシライ
ス、ビーフシチュー、パスタ。
メニューを見れば、そこに書かれている食品は家庭料理と呼ばれる類のものばかりで、店がそういったもの
を売りにしているというのが分かる。
「あ、じゃあハンバーグにしようかな。和風とイタリアン、弥生さんはどっちがお勧め?」
「私
は洋食派なのでイタリアンが好きですが、和風はネギやキノコ。イタリアンは目玉焼きを上に乗せ、ポテトがついてますね」
「じゃ、和風
にしておくわ」
メニューを見ずにつらつらと言ってのける生田の常連ぶりに再び苦笑いをすると、チサトは和風を選択した。生田が軽く手
を挙げてオーダーしている間、チサトは再び店内の様子を観察し始める。
さほど広くは無い店内にかかる音楽はクラシック。全席禁煙と
なっているのか、タバコ特有の臭いは無く、壁に使われている木材の香りがより一層落ち着きを駆り立てていた。談笑を交わす人々の年齢層はチサトたちぐらい
の年若い子もいれば、年配層もいる。しかし、彼らに共通しているのは皆穏やかな笑みを浮かべており、店での食事を楽しんでいるということだろうか。
「良
い雰囲気のお店でしょう?」
チサトが視線を戻すのを待っていたように、生田は彼女に声をかけ、軽く店内に視線を巡らす。
「路
地裏って、あんまりいいイメージが無いかもしれませんが、中にはこんな風に素敵なお店もあるんですよね」
「そうね、あたしはあんまり
路地裏とか入らなかったんだけど、ちょっと考えが変わったわ」
運ばれていた水を少し口に含み、喉を潤しながらチサトが言うと、生田は
微笑みを深めて小さく頷いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
彼は夢を見
た。
それは過去の自身が受けたものを体現した夢だった。
戦争がまだ盛んだった頃。自分の頭脳、力を使って世界か
ら戦争をなくそうと考えていた頃。
希望に満ち溢れていた頃だ。
夢の中の彼は、その後に来る絶望を知らない。ただ
自身に出来得る全ての事を成そうと奔走し続けていた。
広大な大地を走っていたところで夢が覚め、彼は寝台から身を起こす。今まで見て
いたものが夢であることを確認するように自身の居場所を確認すると、彼は小さく苦笑を漏らした。
「もう少し、もう少しなんだ……」
小
さく呟いた声は、電気の点いていない暗い部屋が吸い込んで掻き消していき、彼は荒れていた息を整えて寝台から降りる。仮眠のつもりが不覚にも眠り込んでし
まったらしく、窓からは月明かりが差し込んでいた。軽く髪の毛を直して白衣を羽織り、彼は仮眠室を後にすると自室である部屋へと戻って、一般社員よりは丁
寧な、それでいて質素な作りをした椅子に腰掛ける。丁度月明かりを背に受ける形となり、影が出来て手元が良く見えないにもかかわらず、彼は何処に何がある
のかを把握しているのか、照明を点けずに机の引き出しを開けた。そこから一枚のカードだけを取り出し、彼は引き出しを閉じる。
「……
とうとう、ここまで来た」
誰に言うでもなく呟き、しばしそのまま背凭れに身体を預け、彼は思考を巡らし始めた。
ソ
ウという少年。
彼の『教育』に二年。彼という存在の完成に、幾星霜を数えた。後は、彼の情操部分がある程度育つのを待つだけ。
本
来ならば、もっと早く『教育』は終わるはずであった。しかし、情操部分に関しては、秘密裏に専門家の目を加えてもみたが、二年経ても変わらなかった。
感
情の有無。
彼にとって、『人形』である者に感情は要らないが、加減というものを知るには、ある程度必要だった。その為に幾人もの人材
を呼び、彼の教育に当ててきたが、全員駄目であった。
これ以上時間をかまけている暇も資金も無くなった彼は、手段を変えた。
「ま
さか、ここまで当たるとはね」
懐からタバコを取りだし、火をつける。暗闇に立ち上る白い煙は風の無い部屋でゆっくりと上に昇り次第に
消えていく。
彼が呼んだ、否、呼び込めるように仕込んだ姪。チサトという娘は、期待値以上の働きを示してくれている。元々感情の起伏
が激しかったのは知っていたが、その彼女が他人に与える影響というのもまた、大きかったらしい。
彼は彼女を呼ぶことを決めた際、彼女
の親元へ連絡をした。
『彼女は、将来のことを考えていますか』
その言葉を耳にし、それまでは好きに生きさせてい
た母親も焦りを感じたのだろう。それまで平穏に暮らしていた彼女は、母の五月蠅さに耐えかねて家を飛び出し、行く宛てがないことに気づき、そして叔父であ
る自分を頼った。
事の運びは、計算どおりだった。寧ろ、ここまで上手く人が動くものだとは、予想外でもあった。しかし、自身の考え通
りに進んでいるのだ。彼に不都合などあるはずも無い。
小さくほくそ笑んだ彼は、白煙を大きく吸い込んでは吐き出す。
彼
の計画――人類への制裁は、秒読み段階に入っていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
チ
サトたちが研究所に戻る頃には、月は高々と空へ上がり虫の鳴き声が細々と聞こえていた。
「結構遅くなっちゃったわね」
生
田お勧めの店で夕食を済ませた後、談笑を交わしていたら時間はあっという間に過ぎ去り、既に時刻は深夜の域に達している。車をスムーズに駐車して降りて来
た生田にそう言ったチサトは小さく欠伸をして身体を伸ばした。
「明日もお勤めはありますからね。今日は早く寝るとしましょう」
文
字通り山のような荷物を抱えながらも微笑んでいる生田の荷物を数個手伝い、チサトはじっと彼女の顔を見つめる。
「な、何か私の顔につ
いてますか?」
荷物の所為で自分の顔を探れないために視線を彷徨わせる事しか出来ない彼女の言葉を聞いているのかいないのか、チサト
は変わらず彼女を見つめ、ふと口を開いた。
「弥生さんって、ホントにイイ人よね」
「へ?」
唐
突な彼女の言葉に生田はただ目を丸めて彼女を見返す。
「美人で、気が利いて、仕事が出来る。いや~……理想の女性ってあなたみたいな
人のことだと思うわ」
チサトは感慨深げに頷きながら言うと、生田は困ったように眉を寄せた。
「そんなことないで
すよ。チサトさんだって素敵じゃないですか。何より、あのソウの心をこんなに早く開かせるなんて。並大抵の人じゃ出来ないんですよ?」
「そ
んな大層なもんじゃないって。単に今までの人のやり方がまずかったんでしょ。アタシなんてそんな大した学も無いから自分だったらどうかな、って考えただけ
だし」
「だとしたら、子どものことを考えられる人ってことじゃないですか。充分素敵だと思いますよ」
生田の言葉
に苦みを混じえながら笑ったチサトはその場で大きく伸びをする。
「ま、そんなことより早く戻るとしましょうか。明日起きれなくてソウ
君に膨れられても困るしね」
「あの子が膨れたところも見てみたいですけどね」
膨れたソウを想像したのか、荷物の
山で抑えながら笑う生田に笑顔を返し、チサトは二人を照らす月を見上げた。
静かで、平和な夜だ。
そう実感してし
まうほど、今の生活に充足感を得ていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
毎
朝まだ涼しい時間に起き、生田と約束組み手を交わし、ソウの部屋で一日を過ごす。
崩れることの無いリズムを刻むメトロノームのような
生活が続き、それでもチサトが飽きること無く日々を過ごせたのはソウという少年が日増しに変化を見せていたからだろう。食事の件を境に、ソウが少しずつで
はあるが言葉を発し、彼女は会話するたびに満面の笑みで持って答えていた。
「おねえ、ちゃん」
鶴以外にも様々な
動物をモチーフにした折り紙が真っ白だった部屋を彩り、数週間前と比べると雰囲気の変わった部屋をぼんやりと眺めていたチサトだったが、ソウに声を掛けら
れて慌てて彼を顧みる。
「な、なに?」
「これ」
相変わらず表情は無い様に見えるが、それで
も初めて出会った頃に比べると格段に表情と呼べるものが彼の顔に浮かべられており、ほんの少しだけ顰められた眉から何かを尋ねようとしているのだと分かっ
た。
「つくれる?」
ソウは手にしていた本の一ページを指差し、チサトに向けてくる。見ると、それは風景の写真集
らしく、どこかの崖の上から取ったのだろう、陽光に煌めく海の姿が写っていた。
「コレは……流石に……」
「つく
れない?」
呻いたチサトに少し残念そうに呟いた彼はすぐに本を棚にしまおうとするが、チサトは彼の隣に立って別の本を取り出す。
「そ
もそもソウくんは海って見たことある?」
首を振るソウに苦笑を浮かべると、チサトは取り出した本を開いて見せた。どうやらそれは海洋
生物図鑑らしく、様々な色・形をした魚の姿が色鮮やかに描かれており、見開き一面を写真で飾られたページをソウに見せる。
「正直な
話、こんな写真見たって海の凄さってのは伝えられないわ。ここにあるのは結局海の一部だからね」
苦笑を強めて彼女は続ける。
「海
は、生命の始まりって言われてるの。今世界には色々な生き物がいるけど、この海が無かったらわたし達も、他の動物や植物も生まれてないわ」
「せ
いめいの、はじまり……」
「そう。いつもこの部屋で閉じこもってるけど、たまには外にでも行かない?写真とかだけじゃわからないもの
もあるのよ?」
「そと……」
チサトの言う『外』というものがよくわかっていないのかしばし硬直していたソウだ
が、不意にその身体が宙に浮いた。
「ほら、じっとしてると身体も大きくならないのよ」
小さいとは言え小学生中学
年程の大きさをしているソウを抱きかかえ、チサトは部屋から出ようとし、ソウを片手で支えドアノブに手を掛ける。
「……だめっ」
「え?」
捻
ろうとしたその瞬間、胸元にあったソウの口が動き、窓も無い部屋に台風のような暴風が吹き荒れてチサトをなぎ飛ばした。
ソウを支えき
れず手を離し、壁に思い切り叩きつけられたチサトは、辛うじて受身を取ることは出来たにしろ、異常極まりない出来事と衝撃の為にその場から動くことが出来
ない。
「っ、ソウ、くん……、ぶじ……?」
背中からぶつかった為に肺の空気が詰まりむせ返りながら瞳を開くと、
投げ出してしまったはずのソウは平然としたまま彼女の前に立っていた。
傷どころか全く動じていないソウを目にして、チサトは初めてソ
ウに対して言い様の無い恐怖感を覚えた。暴風が吹き荒れる直前を思い返す。彼が小さく呟いた途端、風が入るような隙間も無い白塗りの、檻のような部屋が原
因不明の突風に煽られた。その証に飾ってあった折り紙は全て薙ぎ倒され、千羽鶴はどうにか落ちなかったが風の余韻で大きく揺れて、紙同士が擦れる音だけが
部屋にむなしく響いていた。
「……おねえ、ちゃん……」
無機質なガラス玉を思い起こさせる瞳を向けられ、チサト
ははからずともその身体を小さく跳ねさせた。
跳ねさせてしまった。
彼
女に近づこうと一歩歩みを向けていたソウだが、そこで立ち止まりチサトからも視線を外す。千羽鶴が動くのを止めた後も彼らは無言で動かず、耳に入る音と言
えば時計が刻む針の音だけだ。たった数分のはずであるのに、幾時間にも感じる重苦しい雰囲気の中動いたのはチサトだった。お互いに無言で部屋に留まってい
たが、彼女は壁を頼りに立ち上がると視線を下げ無言のまま彼の部屋から出て行った。ソウは彼女には最後まで視線を向けず扉が閉まった音がした後に一度だ
け、開かれる気配の無くなった扉を見つめた。
ソウの部屋を出たチサトは、自分の部屋に帰る
わけでもなく彼の部屋と廊下を繋ぐ扉の前で立ち止まっていた。
出てきてしまった、という後悔が彼女の胸の内にあり、しかし再び彼の部
屋に入る勇気は無かった。
怖いのだ。単純に、純粋に、ソウという思考の読めない、感情の分からない少年が怖くて仕方が無いのだ。
「も
う、引き際なのかなぁ……」
扉に寄りかかりずるずるとそのまま腰を下ろし、膝を抱えて俯く。
疲れた。
身
体的に疲弊しているわけではない。それは自身でも分かっている。ただ、吹き飛ばされたショックと、ソウとの意思疎通の不具合さが彼女の神経を磨耗させてい
たのだ。
これからどうするべきなのか。突如暗闇の中に放りだされたような気分で動く気にもならず、このままここで座っていようかと考
えていたとき、彼女の前に人が立った気配がした。
「お疲れですか?」
聞き慣れた声をかけられ頭を持ち上げてみる
と、そこにはやはり微笑みを浮かべたままの生田の姿があった。
「何か、あったんですね……」
チサトが頭を上げ、
その表情を見た彼女は眉を顰めると膝を屈めてチサトと同じ目線になる。
「……あの子、何かしたんですか?」
ソウ
がやったのだろうか。それすらも分からない原因不明の先ほどの出来事にチサトは虚ろな眼差しを向けながら首を振る。
「わからな
い……。あの子がしたのか、それとも別の何かなのか……。理解できないの。だって、子供の力――人間の力で出来るようなことじゃないわ、あんなの……」
壁
に叩きつけられた先刻を思い返し、無意識に自身の身体を抱え抱き、再び俯く。
研究所にきて初めて吐く本気の弱音。
性
別も同じで年齢も近い生田だからこそ吐くことが出来ているという事にチサトは気づいていなかったが、生田はそれをなんとなしに感じ取っていた。
「何
が起きたのかは、分からないですけど」
立ち上がってチサトの左隣に移動すると、彼女はチサトと同じ様に扉に寄りかかって座り込みチサ
トの手膝に軽くその手を乗せる。
「ここであの子を投げ出してここから逃げますか?」
ピクリと身体を動かし、非難
の目を向けてくるチサトに変わらない微笑みを向けながら彼女は続ける。
「別に批判してるわけではないですよ?
ただ、傍から見ればそう見えますよね、ってことです。折角心を開きかけたソウくんを残して、この場から離れても後悔はしませんか?」
半
眼で生田を睨みながらも、チサトは口を開いた。
「……する」
「だったら、ここで彼から逃げないでまた頑張るしか
ないでしょ。……気落ちするのは構いません。考えるのも大切です。でも、こんなに早く心を開き始めたあの子を今チサトさんが手放したら、彼は以前より一
層、一人の世界に閉じこもってしまう」
チサトから視線を外し、天井を見上げる生田の顔には、もう微笑みはなかった。ただ、何処か寂し
げで物憂げな表情をした彼女に二の句を次げず、チサトはただ彼女の横顔を見つめていた。
数分その体勢が続いていたが、生田が視線を変
えずに口を開く。
「チサトさんは……、『平和な世界』ってどんな世界だと思いますか?」
「平和な、世界……?」
身
近ではない、世界、ひいては惑星規模の質問を投げかけられ、チサトはただ戸惑うしかない。
「今、世界では大規模な争いは起きてませ
ん。しかし、小規模――紛争と呼べるような争いは未だに続いているんです。私たちが住むこの国では情報すら中々入ってきませんけどね」
こ
の国は『平和』だから、と生田は苦笑する。
「ですから、この国は『平和』でも、世界・星で見るとまだまだ『平和』とは言えないんで
す。ですから、お尋ねします。『平和な世界』って、どんな世界だと思います?」
なぞなぞにでも問われてる気分だ。今、生田は紛争があ
るから平和ではないと言った。それ以外の答えを求めて聞いているのだろうか。
「『平和な世界』ねぇ……。なんていうか、漠然とした問
題ではあるから何とも言い辛いけど、弥生さんの言うように争いの無い世界が平和なんじゃない?」
「なら、質問を変えます。どうした
ら、その『平和な世界』は創られると思いますか?」
間髪入れずに生田は次の質問をしてくる。視線は変わらず天井に向けられていて、普
段の温和な彼女とは別人のような雰囲気に気圧されながらもチサトは再び思考を巡らす。
「えっと……、争いの無い世界、よね……。そう
ね……やっぱりまだ紛争とかが起きているのは結局のところ宗教の問題が多いわよね?
その点を解決させることが出来ればなくなると思うんだけど……考えとしては甘いわね」
苦笑いを向けると、生田も視線を下ろしてチサト
を見る。その目はいつもの柔らかな輝きを保っておらず、先ほどのチサトのように暗い色をしていた。
「弥生……さん……?」
「宗
教問題の解決。出来れば本当に喜ばしいことなんですけどね。でも、それはあくまで理想論の中でも一番現実味の無い理想です。夢想と言うべきでしょうか」
彼
女達以外誰もいない廊下に、生田の声だけが静かに響く。無言でいることしか出来ないチサトが押し黙っていると、生田は無表情のまま再び口を開いた。
「『平
和な世界』には、絶対的な強者。ひいては完全なる統治者の存在が必要なんです。過去、歴史の紐を解けば中世ヨーロッパでは絶対統治者の存在がありました。
その統治者が良き指導者であればあるほど、その国は『平和』でいられたというのは御存知でしょう?」
中世ヨーロッパ。神聖ローマ帝国
やフランス、ポルトガル等には王と呼ばれる存在がいた。血族でその統治者は変わり、法政が彼らに委ねられていた事は義務教育の過程で誰でも知識として知っ
ている。
「誰も逆らえない存在、『王』がいてこそ、この世界は『平和』になるんですよ……」
そう呟き小さく笑っ
た生田は、呆然と座り込んでいるチサトを置いて立ち去っていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「報
告致します」
無機質な声が、室内に吸い込まれる。何種類もの機械音がその部屋では一定の間隔を持って鳴っており、部屋はその機器らが
発している光だけで照明は点いていなかった。
「……7が力を使いました。退室禁止を忠実に実行しようとした為に用いた模様です。しか
し、その威力に殺傷能力は無く、チサトさんにもお怪我はありませんでした」
部屋の奥から、ほう、という感嘆にも似た声が聞こえた。何
処か楽しげな声はそれ以上声を出さず報告を待つ。
「用いた力は単純に大気を動かして突風を巻き起こすものと思われます。部屋の監視カ
メラにもその時の様子は記録され降ります」
報告者は部屋の奥へと進み、手にしていたものを機械に向かっていた者に渡し、再び後ろに下
がる。その動きは人の動きというよりも無駄の無い機械的な動きだった。
「また、この力の行使によりチサトさんは身体よりも精神的に
ショックを受けた模様でこれ以降は7の元へは行っておりません。何が起きたのかを理解しきれていない様子でした」
「随分と饒舌だな」
彼
の言葉で報告をしていた者の口が止まり、彼はその様に苦笑を漏らす。
「普段ならばあったことそのものをありのままに伝えていた君が、
今回はどうだ? 君自身が感じた感想も混じっているじゃないか」
「……余計なことを申してましたか? 失礼致しました」
特
に思考した様子も無く頭を下げる報告者の耳には、更に彼の声が入ってくる。
「余計とまでは言わないが、な。あと少しだ。彼らの面倒、
よく見てくれたまえ」
「畏まりました」
くく、と喉の奥で笑う彼に背を向け、報告者は退室する。
――
あと少し。
それがどこまで後少しなのかを、彼女は知らなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
◆
連日晴れの日が続き、いい加減暑さに辟易としていたが、その日は久々に雨が降った。熱されていたアスファルト
も久々の雨でその色を濃くし、窓を開けてみれば草の臭いが強く鼻を突いた。視界に入る樹木の葉から雫が地面に落ちるのをただ眺めていた彼女は、息を吐く度
に重い溜息を吐いて手を伸ばし雨にその腕を濡らしていた。
既に時刻は昼を過ぎ、ただ何をするでもなく外を眺めながら一日が過ぎ去りよ
うとしていた。
(何もする気になんない……)
溜息は雨の音に消されるが、彼女の淀んだ重い心は楽になる事無く溜
息を吐く度に増していくようだ。
空を覆いつくした曇天から降り止まぬことのない雨。この雨を、あの少年は見たことがあるのだろうか。
海を知らず、外に出る事無く、ただ知識としてそういうものがあるということを朧気に認識していくだけの、少年。
そう、少年なのだ。
彼
がやったとしか思えない不可思議で恐怖を感じる力を持っていようとも、彼という――ソウという人間は、感情表現の下手な少年でしかない。
頭
では理解できていても、チサトは再びソウの部屋を訪れることが出来ないでいた。ただこうして雨に手を濡らし、ぐるぐると思考を巡らせて答えのない方程式で
も解いているような気分だ。
「……ソウくん、何してるかな……」
ポツリと呟いてみると、彼が何をしていそうなの
かが浮かんでこない。いや、浮かんでくるには浮かんでくるのだが、それはあの一件がある前の彼であり、あの一件の後の彼の姿が浮かんでこなかった。
自
分が恐怖に身体を震わせてしまったのを見て、彼は動きを止めた。視線を背けた。
傷つけた。
分かっていながら、彼
の元にいって声をかけることが出来ない。そんな意気地の無い自分に自己嫌悪することしか出来ず、雨に濡れた手を引き戻しながらチサトは再び大きく溜息を吐
き、濡れて感覚が鋭敏になっている腕をタオルで拭った。
ふと、拭っていたタオルを見ていたときに昨日の生田の言葉が頭を過ぎる。
「……
一人の世界に閉じこもる、か……」
それを回避するためにもしっかりしろ、と生田は言った。
理解できる。
そ
れが大切なことだと、分かっている。
でも何故。
「あたしじゃなきゃ、駄目なの……」
寝台に
身を投げ出し、チサトは自身の体のように全てを投げ出したい衝動に駆られていた。
Third
Chapter. 守りたいモノ ――As for world someone's ones ?――
◆
◆ ◆ ◆ ◆
(時間がないな。もう少し覚醒するまで待つつもりだったが、そうも行かなくなった)
夕
食を口に運ぶのを止め、食堂に備え付けられたテレビのニュースを見ながら彼は内心呟き、人知れず下唇を噛む。キャスターが淡々と読み上げるそのニュース
は、大戦には発展しないようだが、それでも大規模な戦争が行われようとしている、とのことだった。
『平和』なこの国において戦争など
というものは既に過去のものと認識されがちだが、それでもかのように新兵器を試すような行いが一定周期を置かれて行われていた。
「戦
争など、本来ならば必要ないはずなのにな」
ぽつりと声に出した呟きは誰にも拾われず、同じ様にニュースを見てざわついている職員に掻
き消されるが、彼もそんなことは気にしていない。
戦争は終わりのないワルツのようだ、といったのは誰だっただろうか。人は本当に学習
をしているのかどうかを戦争という観点からは甚だ疑問視するしかない。
殺人、自然破壊、ひいては星そのものの破壊。
な
らば、戦争を引き起こす人間という種族を淘汰してしまえば良い。
世界の為。
彼は何年も密かに続けてきた計画を実
行に打つことを決めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夕飯も食べる気に
なれずただ部屋でごろごろ転がっていたチサトは、いつの間にか自分が眠っていたことに気づく。窓の外を見ると雨は既に上がり、雲間から時折満月が顔を出し
て彼女の部屋を照らしていた。
枕もとの時計を見ると、既に深夜。徹哉で研究に没頭している者意外は既に就寝している時間だ。
「寝
すぎちゃった、かな」
再び寝ようにも一度起きてしまった手前、寝巻に着替えなくては気持ち悪い。それ以前にシャワーでもいいから寝汗
を流したかった。
手早く着ていたものを脱ぎ、バスルームに向かおうとしたところ、少し開いておいたドアから足音が聞こえてきた。
(こ
んな時間に? あたしとソウくん以外、部屋なんてないのに……)
自分を心配して誰か来たのかと思い、急いで着替え直すが足音はそのま
まチサトの部屋を通り過ぎ、ソウの部屋へと向かっていった。
(……おかしいわよね、いくらなんでも……)
幾らソ
ウが『普通』ではなくても、真夜中に起こす必要性は全くない。そもそもソウが『普通』ではないというのは、言動から察するに生田と自分ぐらいしか知らない
はずだ。
ソウを連れ出そうとしているのが誰なのか確かめようとチサトはドアの前で息を潜め、再びソウの部屋が開かれるのを待つ。廊下
の先へ視線を移せば、そこは暗闇だけで構成されており、非常灯の明かりのみが点いていて全く何も見えないと言っても過言ではない。
(一
体、誰なの……)
息を殺していると、彼の部屋の扉が開かれる音がした。心臓が跳ね上がり、自身の鼓動が耳につくが構ってもいられずた
だじっと自身の部屋の前を通り過ぎるのを待つ。
コツコツ、と響く音が部屋の前を通り過ぎる。
隙間から覗いたの
は、誰かに手を引かれるソウの姿。
手から先は暗くてよく見えなかったが、大きさから考えるに男の手のようだ。チサトが覗いている事に
は気づかなかったのか、足取りを変えずにそのまま廊下の先へと消えていった彼らだったが、チサトは未だにドアに張り付いたまま動けずにいた。
「な
に……あの子の、目……」
男の手以外に見えた、ソウの顔。感情の宿り始めた昨日の表情など、全く伺えなかった。死んだ魚のような、虚
ろで何も映していない双眼。そしてその双眼が、
「何で……光ってたの……」
輝いていた。否、虚ろな眼(まなこ)
のみ、不気味に光を放っていた。
先ほど、男の顔が見えなかったのではない。きっと目を凝らせば見えていたのかもしれない。しかし、ソ
ウの瞳から視線を外すことが出来なかった。虚ろな両眼が輝き、漆黒と翡翠が常識では考えられない淡い輝きを放っていたのだ。本能的に危険を感じるその輝き
に気圧されチサトはその時身動きどころか呼吸すらも止めていた。
「……でも、あんな顔……」
足音が徐々に遠の
き、角を曲がってしまうとその音もはっきりとは聞こえなくなってしまう。チサトは俯けていた顔を上げ、立ち上がる。
「あんな顔、させ
てられない……っ」
男が何処へ彼を連れて行くのか、何を目的にしているのか、さっぱりわからない。それでも、チサトは彼らの後を追う
ことにした。こんな夜中に人知れず行動をする彼らの痕を置くことは危険が伴うかもしれない。そうわかっていながら、彼女は音を立てないようドアを開くと忍
び足で彼らの消えた廊下へと踏み出していった。
視界から外れないギリギリの距離でソウ達の
後を追い、辿り着いたのは南側にある所長室前。そこまでどうやら気づかれずに尾行してきたチサトだが、そこで立ち止まっていた。基本的にこの会社は所長室
に誰でも出入りが出来てしまうくらいアバウトな会社であることは知っているが、それでも深夜にこの部屋に入れるものなど限られている。それが、彼女を踏み
とどまらせていた。
「なんで……叔父さんが……」
所長室の主である、水元。彼以外に、この部屋にいつでも出入り
できる人物など存在しない。部屋の前で呆然としていたチサトだが、意を決してドアに手をかけ、金具が軋む音を立てながら中へと入った。
「叔
父さん……?」
部屋に入り込み、声をかけるも、返事は無い。それどころか、人影さえなかった。
「……どういう、
こと……?」
綺麗に片付けられた部屋の奥からは月明かりが差し込み、電気の点いていない部屋でも部屋の細部まで目が届く。何の異常も
見当たらないその部屋へ確かに彼らの姿は消えたのに、その彼ら自身の姿は何処にも無かった。
辺りを見回してみるが部屋には隠れられる
ような場所はひとつも無く、チサトはゆっくりと部屋の真ん中に移動してみる。
「まさか、そんな非現実的なこと……」
部
屋から人二人が忽然と姿を消すなど、ありえない。普段水元が使っているデスクの前まで行くと、そこに不可解なものがおいてあることに気づいた。
「……
鍵?」
何処の部屋の鍵だろうか。古臭い金属製のものではなく、カードキーがポツンと置いてあり、チサトはそれを手にとってみる。何処
の部屋の鍵なのかは記されておらず、とりあえずポケットの中に突っ込むと、引き出しがほんの少しだけ開かれていることに気づいた。全て出してみても文房具
が無造作に入れられているだけで特に変なものが入っている様子も無い。しかし、彼女は引き出しを元に戻そうとした時に引き出しの隅に小さなボタンがついて
いることを見つけた。
「そんな、ありえない……わよね……」
気づいたからには、押してみるしかない。嫌な考えだ
けが頭を過ぎるが、チサトは震える指でその小さなボタンを押し込む。
がこっ
鈍
い音が部屋のどこかで鳴り、鍵が外れる音がした。特に変化無く見える部屋だったが、音が聞こえた本棚に足を向け、注意深く観察すると一冊だけ少しはみ出し
ており、それを引き抜くと奥に扉の取っ手が見える。
「隠し扉……?」
這いつくばって本棚の下に視線を向ければ、
その本棚だけレールの上に乗っかっており、動かせるようになっていた。水元の秘密を暴いているような思いに駆られながらも、チサトは治まらぬ動悸を深呼吸
してどうにか抑えながら本棚を動かし中へと入っていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
(空
は蒼い。
部屋の中にあった本では、そう書いてあった。
海は広い。
部
屋の中にあった本には、そう記されていた。
雪は白い。
絵画で見たソレ
は、神聖な物であるように描かれていた。
人は、汚い。
そ
う、教えられていた。
いつしか何も言葉を発しなくなった僕に親しげに声をかけてくる人など、いなくなった。いや、初めから親しげに話
しかけてくる人などいなかったかもしれない。そんなに経っていないはずなのに、記憶というのは曖昧ですぐに消去されていく。
都合の良
い悪いに関わらず。
何も要らないと考え出したのはいつからだったろうか。時折僕の世話役として何人か人が訪れてきたが、結局一月も経
たない間に入れ替わっていった。最初は笑顔だった彼らも、数日も経てばその笑顔も消え、僕に対して悪態を吐いてくる者が大半だった。
曰
く、僕は異常らしかった。
何も聴いていないと思っている彼らなど、どうでもよかった。いや、僕にとって彼らというよりも、この世界と
いうもの自体がどうでもいいものだったのかもしれない。
僕の生きる意味。
ソレを考え始めるようになって、僕は一
層言葉を発さなくなった。発するというよりも、失うといった方がいいぐらいに。
作り笑いをしてくる者の心が読めるようになったのはそ
のくらいからだろうか。それからはもう、彼等が何を考えているのかも分かるようになり、結局のところ僕の元へ来る人などお金か何かしらの対価を求めている
ことが分かった。
人は、汚い。
教わったことの意味が良くわかった。
こ
んな世界、イラナイ。
キエレバイイ。
キエテ、マッシロナ、ナニモナイセカイニナレバ、イ
イ)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
扉の先には下へ
と続く階段が待っていた。壁に手を当てて転ばないように注意しながら進んでいくと、五分ほどで階段は終わりを向かえ、その先には非常灯で照らされた細い廊
下が続いている。チサトはその先にソウがいることを信じながら足を動かし、ソウの部屋の扉と似た観音開きの扉の前に出た。押したり引いてみたりするが一向
に開く気配は無く、ふと視線を扉の横に向けてみると赤いランプの点った不審な溝を見つけた。
「もしかして……」
小
さく呟いてポケットの中を漁ると、先ほど水元の部屋で見つけたカードキーが姿を現す。暗い中で溝に嵌めるのは少々苦労したが、カードをゆっくりと溝に通す
と、短い間隔で電子音が鳴り、扉が自動で開いた。
彼女は、開けた大部屋に辿り着いた。広さだけで言えば、そこは舞踏会でも開けそうな
ほどの広さを持っていた。しかし、ここで舞踏会等は開けない。
「何なのよ、ここ……」
閉口するしかない空間。そ
こは、映画や小説の一節のような空間だった。見たことも無い機械が幾多も設営され、一定感覚で音を鳴らしながらコードの先に繋がれている培養槽の状況を示
しているようだ。
人の姿を象った、生まれたままの姿の、少年少女達の命を、示しているようだった。
「何なのよ、
ここはっ!」
怒りか怖れか、何に対する怒りか、怖れか。
チサトは震えながら怒鳴り、部屋の先を見据える。
「説
明してよっ! 叔父さんッ!!」
彼女の視線の先には、彼の姿があった。背中を彼女に向けたままで、その隣には緑色の髪を持った少年も
佇んでいる。
「まさか、ついてきてるなんてね。全然気づかなかったよ」
緩慢な動作で振り返る水元の顔にはいつも
と変わらぬ優しげな笑みが浮かんでおり、チサトはこれが悪い夢であることを一瞬だけ願った。立ち止まっていられず、彼に歩み寄りながら視線を周りの少年少
女たちに向けるが、彼らは眠っているように穏やかな表情をしながらその体躯を水に委ねていた。
「もう一回聞くわ。ここは、何?」
先
程より落ち着いた口調ながらその視線はきつく、水元はおどけるように肩を竦める。
「勝手に入ってきてそんな態度取られることは無いと
思うんだけどな。……まぁ、いい。入ってきたんだから教えてあげよう」
笑みの質が変わる。今までチサトが見たことの無い、据わった瞳
のままで水元は口を歪めた。
「その前に、ちぃちゃんに聞こう」水元は腕を上げて指を立てる。「『世界は、どの姿が一番平和だと思
う?』」
その質問にチサトは小さく息を呑む。
「……叔父さんの答えは、『絶対王政』とでも言うのかしら?
国じゃなく、世界――惑星そのものを一人の手で治めるのが、一番だとでも?」
チサトの答えに喉で笑い、彼は二本目の指を立てる。
「次
だよ。『世界を統治すべき人とは、どうあるべき人だ?』」
何処か楽しげに新たな問いを投げてきた彼にチサトはまっすぐ視線を返す。
「絶
対的権力者。言ってしまえば、あたしたちみたいな凡人ではなく、もっと『力』というものを持っている人間」
指が、再び増える。
「そ
の、『力とは?』」
「……お金や暴力的なものではなく、俗に言うカリスマ性を持った者?」
彼女の答えに、水元は
大きく口元を歪めた。そして、額に手を当てて嗤い出す。
「合格だよっ! まさかそこまで考えが出来ているなんてねっ!
やっぱり君にこの子の面倒を見させたのは正解だったっ!」
高らかに嗤い続け、背後にあった壇上に水元は登った。
「そ
う、その通りなんだっ。世界は平和だ平和だと言われているが、実際のところどうだい? 戦争はなくならない、貧富の差は広がる!
貧困な国では子供が死に、その傍らでは国の重鎮が過ぎた生活をしているっ!」水元は腕を振り上げ段に叩きつける。「こんな世界など、偽りの平和に過ぎない
んだよっ!」
「……なんであたしである必要があったの?」
そう。自分がここに来たことは自分の意思であったはず
なのに、目の前の男は自分で仕組んだかのように口にした。憶測にしか過ぎないが、フリーターでいた自分の母親に何かしら吹き込み、行く宛てのない自分がこ
こを訪れることを計算していたのだろう。
興奮のためか普段よりも饒舌になっている男は歪んだ微笑みを見せながら答えた。
「君
は人一倍正義感が強い。感受性もね。この子には一度感情というものを知ってもらわないといけなかったんだ。愚かな人間は感情で動くというその本質的な部分
を知ってもらうためにもね。両方を備えた存在で、簡単に呼び寄せることが出来たのは君だけだった。ただそれだけの理由さ」
「……さっ
きのあたしの質問には答えてないわよ。もう一回聞く。ここは、何?」
未だにチサトに背を向けたままのソウをちらと見やり、嫌な考えが
浮かぶ。
「ここかい? そこにいる、7が答えじゃないか」
「セヴン?」
チサトを、その場の
空間全てを見下す男の視線が、ソウへと向く。
「君がソウと呼んでいた、その子だよ」
「7
はここで生まれた。ここにある水槽の中の一つで生まれた。この偽りの世界を本当の平和な世界にする為に生まれた、僕が作った人造人間――ヒューマノイド
だ」
何も言えず押し黙るチサトの耳に、水元が壇から下りてくる足音が響く。
「作れないわけじゃないんだよ。人の
遺伝子配列は21世紀初頭には解明されていた。遺伝子の構成を地道に解読していけば作ることなど簡単なのさ」
ソウの隣に立ち、水元は
再び喉で嗤い始める。
「君は、人の脳がどの程度使われているか聞いた事がある?」
水元の問いに答えずにいると、
彼は構わず先を語りだした。
「凡人、と呼ばれるような人間だけじゃない。僕も君も、天才と呼ばれるような人間も、脳というのは30%
程度しか使われていないんだ。以前はその部分が使われていないからこそ、人の寿命というのは長命であるとも言われていたんだけどね」
ソ
ウの頭に手を乗せ、水元は彼女に向かって手を伸ばす。
「でも、人は長く生き過ぎるからこそ、愚かだとは思わないかい?
そして、脳というもの全てを使える様になればどうなるのか、知りたいとは思わないかい?」
「……それで、ソウくんの遺伝子を弄って、
脳の使用率を高めた、とでも言うの?」
バカらしい、と吐き捨てたチサトだが前に立つ男の笑みが深まるのを見て、それが成されているこ
とを知った。
「ふざけないでっ! 人が人の命を弄るなんて、そんなこと許されることなんかじゃないッ!」
「ふざ
けてなんかいないさ。これは必要なことだ。7を神とし、統治者とし、世界が彼に跪く為には必要なことなんだよ」
「そんなこと、貴方が
勝手に決めたことじゃないっ! ソウくんがそうありたいと願ったとでも言うの?!」
「世界がそう求めているのさ」
悪
い夢だと思いたい。
でも、これは夢じゃない。
「……ソウくんを返して。叔父さん、あなたにソウくんは任せられな
い。そんな、あなたの考えに賛同させるわけには、いかない」
チサトに向かって伸ばしていた手を引き戻し、水元は笑みを消す。そして、
白衣のポケットにその手を入れた。
「返す、と言うのは語弊が無いかな?
さっきも言ったけど、ソウは僕が作ったんだ。ちぃちゃんのものじゃないよ」
「子供を、物扱いにするんじゃないっ!!」
反
響する怒号。そしてチサトは大きく水元との距離を詰め彼を殴り飛ばそうとするが、その間合いに人影が滑り込む。
「それ以上は、させま
せん」
驚いて反射的に手を引き、間合いを取り直す。細い身体の線ながら、玄人と呼べるチサトの速度に反応して前に飛び出し、あまつさ
え相手の構えを見ると反撃の姿勢が取れていた。
「どうして……」
まさか護衛がいるとは予想しておらず、チサトは
唇を噛んで相手を見据える。その後ろで水元は嗤いながら更に奥の部屋へと進んでいった。
「……なんで、あなたなの……」
気
を削がれて構えを崩しかけるが、相手が崩さず攻勢に出ようとしているのを感じ、構え直しながらチサトは呟いた。
見慣れた顔。聞き知っ
た声。
「何でここに、弥生さんがいるのよッ!」
見慣れない、黒のボディースーツに身を包んだ女性。
「可
能性として考えてはいましたが、まさか本当にここまで辿り着かれるとは思いませんでした」
変わらない丁寧な口調だが、いつもとは違
う。毎朝行ってきた約束組み手の彼女は、もっと微笑みを浮かべていた。そして、もっと瞳に輝きがあった。
「ですが、所長には傷つけさ
せません。それが、私の任務ですから」
呟きが聞こえたと思った矢先、チサトの身体は宙を舞う。
(速い……?!)
衝
撃は腹部。どうやら蹴られたらしく思わず動きを止めたくなるが、受身を取って追撃を逃れるように身体を右に転がし、その勢いを使って立ち上がる。視界に
映ったのは低い体勢のままで自分に向かってくる弥生の姿で、チサトは悩んでいる暇も無く防戦を強いられる。約束組み手の時より、更に数段速い。目で動きを
追うと言うよりも、風を切る音と弥生の視線で攻撃箇所を読むので精一杯だった。
「……殺しはしません。御願いですから抵抗しないで下
さい」
再び間合いを取り直したチサトに、弥生は話しかける。ボディラインに沿ったそのスーツは見た目以上に頑丈らしく、数発拳を叩き
込んだものの弥生にダメージは見られない。
「冗談、言わないでよ……。あたしは、殺されなくても……、ソウくんを出しにされちゃ、意
味ないのよっ!」
怒鳴り、しっかり構えている弥生に向かい上段蹴りを放つ。それを腕でガードした弥生が突きを放ってくるがしゃがみこ
む事で躱し、足払いを狙うが後方に飛んで避けられる。体勢を立て直し、今度は上段蹴りと見せかけて膝で狙いを変えての中段蹴り。しかし、それも少し掠る程
度で左に避けられ、がら空きになった右腹部に掌底をもろに受けることになった。
唇を噛み締めて後方に下がると、追撃は無く静まったそ
の場にチサトの荒い息だけが木霊する。
動けなくなるほどの傷は受けていないにしろ、チサトには確実にダメージが加わっていた。始めに
隙を突かれて蹴られた一番ダメージの大きい腹部を押さえながらも構え直し、弥生を睨みつけながら啖呵をきる。
「世界のため世界のた
めって言うけどさ、結局そんなの叔父さんの独り善がりじゃないっ!
あたしは認めない。認めないから負けられない。絶対に、弥生さんを倒して叔父さんも一発ぶん殴って、ソウくんと一緒にここから出て行ってみせるッ!」
怒
声はその施設一杯に響き、それが静まったところで弥生が口を開いた。
「……チサトさんは、お強いですね」構えを解き、彼女は俯く。
「以前聞いた時、あなたは私の話すことを聞くだけで精一杯だった。それが今では私や所長の考えを真っ向から否定するだけの考えを持って戦いに臨んでいる。
そして、7を助けると言う明確な意志も持っている」
でも、と弥生は顔を上げた。その表情は固く、先程と変わらない様に見えるが、その
瞳には力が宿っている。
「私はこの生き方しか知らないからっ! 所長の手足になることが、私の生き方だからッ!」
間
合いの距離は、およそ5メートル。身長差がさほど無い彼女達がお互いに詰め寄れば、せいぜい3歩で互いが間合いに入る。じりじりと詰め寄りながらチサトは
弥生を見据えた。
「……本気でやり合いたくは、無かったわ」
「……死合ではなく、試合でやりたかったですね」
弥
生の声を幕切りに二人は一気に距離を詰め、互いの意地を賭けて勝敗をつけた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「さぁ、
始めようか」
誰にともなく呟き、水元はソウの背中を押して先へ進むよう促す。彼らの眼前には先程の部屋にあった物よりも更に大きな培
養槽があった。いや、既にこの域に達すれば水槽と呼んでもおかしくは無い。水族館にでもありそうな巨大な水槽がそこに悠然と置かれていた。
「中
に入るんだ。再調整をし直せば、それでおしまいなんだからね」
感情のこもらない互い違いの瞳(オッド・アイ)はただその無機質な水槽
を見つめており、水元の声が耳に入っているのかすら定かではない。それでも水元が背中を押すと少年は前に歩み、水槽への入口に当る扉の前に立った。
「そ
うだ。中に入れば僕が調整を始める。……あの無意味な戦争が激化する前に、君の調整を終えなくちゃいけないんだ」
時間は無い、と呟
き、水元はソウの頭を撫でる。
「辛い思いをさせるかもしれないが、これは必要なことなんだ。君しか、7にしか出来ないんだよ」
何
度も何度も愛おし気に撫でるその姿は、先刻チサトに見せていた卑屈な笑顔などではなく、慈愛に満ちた親そのものの笑顔だった。
ソウは
それでも水元に視線をやることは無く、黙って水槽の中に入って扉を閉めると、部屋の中を見回すように一度だけ首を巡らした。
「7、足
元に落ちてるマスクを鼻まで覆うように付けるんだ。そうすれば人口羊水で一杯になっても呼吸できるようになる」
言われた通りに転がっ
ていたマスクを装着し、ソウは人形の如くその場で身動きせず瞳を閉じた。
耳に入ってくる、水槽を満たそうとする水の音。それは、水元
の言う『再調整』の始まりの音。
『再調整』と言う名の感情除去作業が今、始まる。
◆
◆ ◆ ◆ ◆
(人は何を求めて生きているのだろうか。
幸福? 金銭?
快楽? それとも、もっと別の何か?
わからない。本を読むことで様々な知識は蓄えてきたけど、僕の中には何か大きな空洞があって。
そ
れを満たしたかったけど、もう、それも叶わない。
あの人がきて、誰も教えてくれなかった幾つかの事は識る事が出来た。あの人となら、
失っていたはずの言葉も知らないうちに出てきていた。
でも、もうあの人とも会えない。
さようなら。
さ
ようなら。
僕は『僕』を失い、生まれてからずっと言われていた『世界』の為に生きます。
さようなら。
さ
ようなら。
……本当は、言葉にしたかったけど……)
◆
◆ ◆ ◆ ◆
ソウの身体を包むように人口羊水がその嵩を増やしていくのを見つめていると、背後から
足音がしてきたので水元はそちらを顧みる。
「……君か」
白衣のポケットに手を入れようとしたが、現れた女性を見
てその手を引き戻す。
「殺してないだろうね? 一応あの子は僕の姪に当たるからね。親族殺しの汚名は被りたくない」
「気
絶しているだけです。顔にも傷は極力付けないようしました」
黒のボディースーツに身を包んだ女性。生田は感情のこもらない声で自分よ
り高い位置でソウを見つめる水元に答えた。とはいえ、ギリギリの勝負だったらしく、時折生田は右腕を抑えて痛みに堪えるように顔を歪めていた。
「……
調整は、順調でしょうか?」
「君が心配することじゃない。とはいえ、問題は無いよ。7も落ち着いたものだ。怖いくらいに問題が無い」
話
しているうちにソウの身体全てが羊水に包まれ、浮力で彼の身体が浮き始める。その姿を眺めつつ生田は小さく溜息を吐いた。それに気づき、水元はようやく彼
女に視線を向ける。
「流石に疲れたか? それとも、7が心配か?」
「……心配、と言うほどのものではありませ
ん。問題は無いのでしょう?」
「その通りだがな。だが、君と7は――」
「それを口にしないで下さい」
生
田のはっきりした拒絶の言葉で、会話は終わる。そして、羊水も水槽一杯に貯まり彼らの前にある機械が合図の音を立てた。水元は羊水の中に収まったソウの姿
を一度見つめ、機械に手を伸ばす。そして、キーボードに指を走らせてパスワードを打ち込んでいった。
「最終チェック、完了。パスワー
ド……『世界の種を蒔く(ソウ・オブ・ワールド)』」
『世界の種を蒔く(ソウ・オブ・ワールド)』。少年を覚醒に導く為のパスワード
だ。ソウとは、sow。種を蒔くという言葉で、チサトに彼の面倒を見させるときの彼の名はここから取られた。世界に平和の種を蒔く者。世界の統治者。水元
の思想を込めた言葉だ。
後は、エンターキーを叩くのみ。とうとう辿り着いたその瞬間を噛み締めるかのように瞳を閉じた水元の耳に、そ
の時違和感が走った。
「させない、わよ……」
「……ちぃちゃん……」
「チサト、さん……」
振り向いた先には、生田が気絶させたはずのチサトが、足を引き摺りながらそこに立っていた。
「叔
父さんの覚悟、それはわかった。世界をどうしたら平和に出来るのか、そこまで考えていると言うのは一般人に過ぎないあたしみたいな人間と違って、殊勝だ
わ」
だけどね、とチサトは彼らを毅然とした瞳で睨む。
「命を弄ぶのは正しいことなんかじゃないっ!
そんな、命を弄んで作られた世界なんて、あたしは認めない、必要としないっ! あたしはあたしの力で自分の『平和』に辿り着いてみせるッ!」
「チ
サトさん……」
「本気でやりあってわかった。叔父さんにも弥生さんにも力はある。叔父さんは権力的に。弥生さんは物理的に。だったら
その力をこんな使い方しないで真っ向から使いなさいよッ! こんなの、ただのテロと一緒よ!
革命何て言わせないッ!!」チサトは大きく息を吸い込む。「だからあたしは、あなた達の計画をぶち壊してみせるッ!!」
チサトは、水
元の考えを真っ向から否定した。そして、自身はそれを真っ向から潰すと宣言した。それを正面から受けた水元は何も言えず、ただ近づいてこようとするチサト
を見るしか出来なかった。
「させません」
「そこを退いて、弥生さん」
水元とチサトの間に、
再び生田が立ち塞がる。互いに傷つき、そして気づいた。
「「負けられない、戦いなの」」
どちらの言い分も正しい
ことに。
やり方は過激すぎると言えども、水元の考えは確かに世界の『平和』と言うものに向かっている。対してチサトの考えは今の自分
の『平和』を崩されたくないと言う想い。
それは、対立しか残されていない想いのぶつかり合い。
多くの、世界に住
む幾多もの人々の想い。
世界を、望む形に変化させたい考え。
世界を、変えたくないという考え。
そ
れは、相容れない想いの相違。
ヒトは願いを天に掛ける生物。
大き過ぎる願いを掛ける人。
儚
過ぎる願いを掛ける人。
様々な人が世界にいる。
ヒトは願いを掛ける。
想いを天に向ける。
叶
わぬと知りつつ
それでも願う。
それはまさに
幻想の様で
大きくて
無
限で
儚い
夢。
それを天に向け、
自身の想いを、
自
身の意地を賭けて日々を
生きる。
「世界はまだ、そこまで捨てたもの
じゃないはずなのよっ!」
掌底を右腕で受けて払う。
「そう考えてきたけど、もう無理なんですよッ!」
追
撃。払われた遠心力を使って生田は回し蹴りを上段に。
「そうやって諦めたら、全部そこで終わりなのよッ!!」
怒
号が飛び交う中、生田の放った回し蹴りをチサトは彼女の懐に飛び込んで威力を殺し、彼女と視線を交わす。
「はなから諦めた人に、あた
しは負けないッ!」
振り上げた膝が、生田の鳩尾に食い込む。骨の砕ける嫌な音を立てて崩れ落ちる彼女を支え、チサトはそっと生田を床
に下ろした。
「ソウくんを解放して」
コツコツと足音が響く。無言でチサトと生田の戦いを見ていた水元は、近づい
てくるチサトに対して首を振ってみせた。
「もう、止められないんだよ。さっき君たちが戦ってる間に再調整を始めさせた。再調整が終わ
るまで、この機械は止められない。……3が倒れても、7は止めさせない。そう、僕が親族殺しの汚名を被っても、ね」
白衣のポケットに
入れていた手を、彼は緩慢な動作で露わにし、その手に握っていたものを彼女に向ける。
「そこで止まるんだ、チサト。僕は姪である君を
殺したくは無い。これ以上、僕の計画の邪魔をしないでくれ」
彼女に向かって伸ばされた腕の先にあるもの。黒光りする小銃を目の当たり
にしてチサトは一旦足を止めたが、臆した様子も無く水元の正面に立つ。
「チサトっ! 止まってくれッ! 君を殺したくないんだっ」
パ
ン、という破裂音と共に、歩んでいたチサトの足元で銃弾が床に小さな穴を開け、チサトはようやくそこで足を止めた。
「……殺したくな
い、殺したくないってさ……。ソウくんにはそれに近いことしてるくせにそんな事言うの? 親族だから? バカにしないでよっ!」
激昂
したチサトは水元を思い切り睨みつけ、吐き捨てるように言葉を紡ぎだす。
「やれるものならやってみなさいよ。あたしすら殺せないで世
界を変える? 甘ったれてんじゃないわよっ! 世界を変えるって言うんならあたし一人どころじゃすまない数の人が死ぬはずなのよっ?!
そんな甘い覚悟なら、はなから世界を変えるなんて大それたこと考えないでよっ!」
「大勢が死ぬことは分かってる。だけど、親族は別だ
ろう? 家族を殺したいなんて僕は考えてないっ」
「それが甘いって言うのよ。殺したい殺したくないじゃ無いでしょ?
それにね、殺して良い命なんてものは存在しない。命に区別を付けてること自体が間違いだって言ってるのよッ!」
チサトが動く。床を蹴
り、怪我を負っているにもかかわらず、玄人の、否、それ以上の速度で水元に迫り――
「この、大バカッ!!」
――
思い切り殴り飛ばした。後方にあったソウの入る水槽にぶち当たり水元は銃を手放して呻くが、受身も取れない凡人の彼はすぐには動けそうも無かった。
荒
い息を立てながらチサトは水元の触れていた機械に目をやる。英語の羅列と安定状況を示すグラフが一定の間隔で表示されており、知識の無いチサトには何が何
だかさっぱりだ。
ふと視線を機械の横にやるとそこにはマイクがあり、どうやらソウのいる水槽と繋がっているみたいだ。
「ソ
ウくん、聞こえる? 今、出してあげるから。あなたがそんな辛い目に合う必要は全く無いから」
水槽内に聞こえているかどうか定かでは
ないが、チサトは呼びかけ、英語を解読しながら機械を操作していく。キーボードに向かって強制終了を促すコマンドを探してみて色々試してみるが、全て弾か
れてしまった。
「絶対、こんな理不尽なことは許されない。絶対……」
独り言を呟きながら機械から離れ、チサトは
ソウがたゆたう水槽の前に立つ。
「こんな水槽、穴開けてあげるわよッ」
水元の足元に転がっていた銃を拾い上げ、
躊躇う事無く引き金を引くが、鈍い音と共に弾痕すらつかずに弾は弾かれた。
「無駄、ですよ……強化ガラスを使ってるので、そんな銃程
度じゃ傷もつきません……」
声に振り返ると、生田がもう立ち上がっていた。折ったあばらがやはり痛みを訴えているのか、胸を抑えなが
ら近づいてくる。既に満身創痍の身体だ。同じく怪我を負っているとはいえ、チサトの相手をするには無理がある。
「諦めてください。私
が世界に対して諦めたように……」
仕方ないんです、と呟き、彼女は水元を助け起こし、水元は殴られた頬を抑えながらチサトを見てい
た。
「諦めなんか……しないわよ」
銃を捨て、チサトは強化ガラスの水槽の向かいに立ち、大きく息を吸い込む。
「あ
たしがこの手で、割ってやるわよッ!」
「っ何をッ?!」
叫びと共に、チサトは足を振り上げてガラスに叩き込む。
「止
めて下さいっ! あなたの足が壊れますっ!」
銃で傷もつかないものに人間の生身が立ち向かうなど、無駄なことだとは彼女も分かってい
る。それでも、彼女は生田の制止を聞かずに何度も何度も自身の足をガラスに向かって繰り出していった。
「止めてッ!
本当に足が壊れますからっ!」
悲痛なまでの生田の叫びは、チサトの耳に届かない。何度も何度も繰り出し、痛みに顔が歪んでも、チサト
は瞳を閉じて水の中で眠っているようなソウを助けようと足を繰り出し続けた。
助け出す。それしか今は考えられなかった。
理
不尽な世界。その通りだろう。
のうのうと生きている者もいれば、一日一日を生きることで精一杯の人々もいる。それが今の世界の現状
だ。命は平等などというのは理想であり、偽りであることもわかっている。
それでも、水元の考えには賛同できない。生理的に、本能的に
受け付けない。受け付けることなど、目の前の少年を見ていれば、出来るわけがない。
世界の『平和』に、犠牲者を出すなど、間違ってい
る。
「ソウくん、起きてッ! 目を開けて!! 約束したじゃないっ! 海を見ようってっ! 外に出ようってっ!!
色んなものを見ようって、約束したじゃないッ!」
バン、と大きな音を立ててチサトは水槽を殴る。水の浮力で自分より高い位置にいるソ
ウを見上げながら、声を枯らして涙を零す。
「あたしは、絶対あなたを――ソウを見捨てないからっ!」
「そこまで
だよ」
起きて、と言ったつもりだった。
でも、声に出来ていなかった。
何で自分の声が出てな
いのか。
何で、自分の口から溢れるのは、赤い液体なのか。
「再調整中に異常が起きては困るんだ。……許してく
れ……」
身体から急激に力が抜け、立っていられなくなる。
ずるりと水槽に寄りかかるようにして膝をつきながら頭
を廻らすと、生田の肩を借りながら銃をこちらに向けている水元の姿が見えた。
ごほ、と咳き込むと、更に口から血液が溢れ出す。胸元に
手を当てると、そこにもべったりと同じ液体が付いていた。
「……確かに、チサトの言う通りだったかもしれない。命に区別は付けられな
い。……だから僕は、計画の邪魔をした君を、殺すよ……」
もう、声も出せない。視界も霞んできた。膝を付いていただけの筈だったの
に、いつの間にか自分の頬は床に触れている。
「ソウ……く、ん……」
指も動かせなくなった自分の無力さを嘆きな
がら、チサトは最期にそれだけ呟き、動かなくなった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
コ
ポ
水槽の中に、一度も立っていなかった水泡が一つ。
コポ
再
び、一つ。
聞こえたのは哀しみの声。
視えたのは必死なあの人の表情。
感
じたのは、あの人の優しさ。
コポ コポ
水泡が増える。始めは一つだっ
たものが、彼の口元を中心に、何も無い場所からも無数に立ち始めた。
(いま、いくから)
少
年の闇一色だった心に、光が灯る。それは小さく儚い、すぐに消えてしまいそうなものだったのに、爆発するように拡大していく。
水の抵
抗力で通常よりも重く感じる腕を動かし、少年は自分の口元にはめられていたマスクを外す。
(いま、たすけるか
ら)
マスクを外すと口元周辺に水が集り、その熱を奪おうとする。その冷たさが心地よく、それでいて嫌悪感を催
す。
(だから――)
少年は、ゆっくりとその互い違いの瞳を開いた。
映ったのは水の中からでも分かる、赤に染まった彼女。
(――おねがい。また、わらって……)
全
身に力を込め少年は今、覚醒した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「そん
なバカなっ?! 何も異常は無いのに何故7は動く? 再調整はまだ時間が掛かるはずだ……っ」
目の前で起きていることが理解できな
い。漆黒と鮮緑(ターコイズ)の双眸が開かれ、生ける人形だった筈のソウが、自ら呼吸器を外して人口羊水の中からチサトの姿を見つめている。教えてもいな
いのに腕を動かしてチサトの傍まで潜り、動かないチサトを只見つめ続けるその姿は、際立つ翠の髪が水の中で揺れる度に神々しさを感じさせた。
彼
の口元が動き何か呟いたようだが、水槽の中の音までは拾えず何を呟いたのかは分からない。
「どうなっている……?
こんなこと、予想すら出来なかった……。何も聞こえていないはずなのに、チサトの声が聞こえたとでも言うのか……?」
独り言のように
呟きを繰り返す水元の隣に寄り添う形でソウを見ていた生田は、彼の双眼が自分たちに向いたことに気づく。そしてその瞳に、今まで見たことが無いくらい彼の
感情が湧き出しているのを感じた。暗く、重く、そして全てに対して向けられている感情。
その感情は――
「……所
長、逃げますよっ」
――憎悪。
水元に声をかけ、その場を離れようとした生田の動きが強制的に止められる。見えな
い壁にぶつかり、大きく身体を転がした彼女が次に目にしたのは、水槽を決壊させる事無く抜け出したソウの姿だった。
「どうやっ
て……」
常識が通用しない相手であることは知っている。しかし、知ってはいてもどう対応すればいいのか等、解るはずもない。
轟
音と共に、あり得ない暴風が巻き起こる。ハリケーン規模、と称すれば良いのだろうか。しっかり固定されているはずの機器が震え、小さいものから空中に浮か
び壁に当たっては砕け、破片が四散していく。立っていることなど出来るはずも無く、ただ風に身体を飛ばされないよう蹲って踏ん張るしか出来ない彼女は、そ
の暴風の中を平然と歩いてくる少年の姿を見た。
鮮緑の瞳が、光の反射と言った説明では成り立たないほどの眩い輝きを放ち、その光を目
にした途端、背筋が凍る。
目覚めさせてはいけないもの。
そんな存在は、伝説上のもので実際には無いと思ってきて
いた。しかし、それは間違いだった。
目覚めさせてはいけない存在は、いた。
「こ、来ないでッ!」
狂
乱しそうな感情を理性で何とか抑制し、それだけ叫ぶ。稚拙な拒絶に過ぎないそんな言葉で止まる訳も無く、オッド・アイの少年は無表情のまま彼女らに近づ
き、気づかない間に震えだした身体を抱え込む生田の前で立ち止まった。
「……ら」「え?」
端正な顔は濡れた髪で
半分ほど隠れているが口元ははっきりしていたので何と言ったのか、生田には解った。
さよなら。
そ
う、彼は呟いていた。
一層輝きを増した鮮緑の瞳に魅入られ、彼の言葉を耳にした瞬間、自身の右腕が吹き飛ばされた事実に生田は気づけ
なかった。
噴水の立てる音に似たものがすぐ傍から聞こえてそちらに目を向けると、あるはずの右腕が消えてそこから鮮血が噴出してい
る。声にならない叫びを上げる暇も、止血をする暇も無く、少年の声だけが、明確に聞こえる。
「さよなら」
左足
が、見えない刃に切断される。寸断されるときに痛みは無い。痛覚をも失ったのか、コレは夢なのか。
「さよなら」
左
腕が、あり得ない方向に折り曲げられ、捩じ切られる。骨の砕ける音と筋肉の健が千切れる音が、現実であることを認識させる。
「さよな
ら」
右足が、触れられてもいないのに爆散する。火薬の臭いはしないな、と爆ぜた肉片をぼんやりと生田は眺めていた。
そ
して、ようやく気づく。自身の四肢が、奪われていることを。
「あ……ぁ……あァアァあぁアァァーッ!?」
悲痛な
叫びは只虚しく木霊する。反響する悲鳴は機器との衝突で所々抉れている壁に吸い込まれ、叫ぶ端から消されていく。噴出の止まない血は液溜まり作り、その非
現実的な光景は白昼夢でも見ているかの様。
そして、血飛沫を上げる生田を虚ろな眼差しで見つめていた少年は、再度口を開いた。
「さ
よなら」
生田は目を見開き、彼の鮮やかな瞳の輝きだけが彼女の意識を奪った。
◆
◆ ◆ ◆ ◆
(あの日、私は造られた。何年前だっただろうか、日付はしっかり覚えているのに、何年
前だったのかはわからない。
そう、三月三日。
それが私の起動日。
初めて私が発した言葉も、
覚えている。私を造ったあの人に対して発した言葉。今思えば、そうプログラミングされていたのかもしれない。いや、私も機械ではないから『プログラム』と
いうのはおかしいな話だが。
「イエス、マスター」
私が初めて発した言葉。私という存在が、あの人には抗うことは
許されない事実を明確に示した瞬間であり、私の名前がナンバーであることに対する返事。そして、彼の中で私は失敗作に当たる存在であるとも、聞かされた。
身
体の強化。
私という存在は、あの人にとって成功したのはその部分だけだそうだ。私以前の者は、凡人と変わらず、そのまま社会と呼ばれ
る世界に送り出されたとも聞いた。
だから私は、彼の人形であり、手足であり、彼の計画の為の駒に過ぎないという宿命を、意識を持った
数分後に理解した。
それで構わないと思った。それが私の生まれてきた意味で、私という存在意義なのだと。
あの人
に他人との接し方というものを教わり、私は彼の勤める研究所の所員として日々笑顔を作ることを覚えた。笑顔で他者と他愛ない話を交わし、影では秘密裏に彼
の計画の支障となる存在を命じられるまま排除していった。
彼女が来るまでは。
あの人の姪に当たるという、彼女
――チサトという女性に会うまでは。
彼女が来て、私の生活は変わった。彼の命令であったが彼女を監視してそれを報告するという生活。
正
直な話、退屈ではあった。
だが、そこで気付かされた事もあった。
私の中に、生活を退屈と感じさせるものが生まれ
ていることを。
『感情』という、ものを。
不確定要素は全て排除していたはずの、私。感情というものも、私には必
要ないものだと言われ欠落させられたはずだった。それが何故、この計画の最終段階間近で生まれてしまったのか。
戸惑い、悩み、そして
私は考える事をやめた。この計画最終段階であの人の手を煩わせるわけにはいかない。黙って今まで通りの私を演じていれば問題ない。そう、結論付けた。
チ
サトさんの身体データと私のデータを元に作り出されたナンバー7は日増しに親しくなり、そして監視役として彼女の周りにいた私も、彼女と親しくなっていっ
た。
快活に笑い、自身の感情を押し隠す事無く周囲に曝け出していた、彼女。
その姿は私にとって新鮮であり、何よ
りも羨ましくもあった。
感情を曝け出すことは、私にとって恐怖に過ぎなかったから。あの人に私の中に生まれた『感情』を知られたら、
私は彼の前から去ることを促される。促す、と言うよりも命令で去ることになるだろう。彼は、自身の思い通りに動く人形を望んでいるから。
私
は彼の前から去らなければなくなる事が、一番恐ろしかった。この生き方しか知らないから。私を造った、あの人のために働くことだけが、私の存在意義だか
ら。必要なくなった、と言われれば、私は私自身の手で自らの命を絶っていただろう。それだけ私にとって彼という存在は、絶対だったから。
そ
して、だからこそ彼女の感情の豊かさは羨ましく、妬ましかった。
拳を交わして彼女の想いの強さも、感じた。
それ
は感情による強さだと、私は認識した。
彼は、知っていたのだろうか。感情が、あれ程までに人を強くさせるものだと。想いが、彼女を突
き動かしていたということを。
その時、私はやっと気がついた。彼女のあの想いに触れて。彼女の強さに触れて。
私
は、彼女のようになりたかったのだと)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
気
づけば、生田の頭部は消滅していた。残されたのは五箇所から真っ赤な液体を零す、胴体のみ。首の所在は彼らの眼前には無く、消失している。
切
断されたのではない。
文字通り、消えて失くなってしまっていた。
緩慢な動作で返り血を拭い、ソウと呼ばれていた
少年は愕然として動けなくなっている水元に視線を移す。喉の奥で小さな悲鳴を発し、彼は手元に残っていた銃を彼に突きつけた。
「こ、
この兄弟殺しめっ! 彼女は、3はお前の姉のようなもので僕が造ったんだぞッ! こ、こんな反抗、予定に無いっ」
「……きょうだ
い……?」
煌々と輝く両眼を細め、少年は呟いた。そして、水元の発した言葉を吟味するように彼を見る。
「……か
んけいない。あのひとも、あなたも、チサトおねえちゃんをいじめた。おねえちゃんは、わるくないのに、なにも、わるくないのに……」
小
さな拳を握り締め、少年は俯き震えだす。
「……『死』、ってどういうものなのかは、ほんにもきちんとはかいてなかった。だから……」
再
び上げたその双眸からは雫が零れ落ちる。頬を伝って顎の先から床に落ちていくその姿を呆然と眺め、水元は徐々に身体を後ろに下げ、壁に当たった。
「……
あなたの『死』で、おしえて。ころして、あげるから」
彼の涙は、何に対してなのか。それ以上に、水元は恐怖を抱きながらも科学者とし
て少年の感情表現が拡大していることに目をつけた。
この、感情の揺らぎを抑えることが出来れば命は助かるかもしれない。
「ま、
まて、7! 僕に構ってる暇があるならチサトを助けなくていいのか? 早くしないと彼女も」
パン、と何かが弾ける音がした。いや、音
だけじゃない。動かした意識は無いのに、身体が床にずり落ちていく。
「うるさいよ。あなたの――お前の口からチサトおねえちゃんの名
前は聞きたくない」
室内の気温が低下しているのか、自身の体温が落ちているのか。急激な寒さに襲われ、水元は身体を抱きかかえて少年
を見上げた。眩いほど輝いていた鮮緑瞳はその輝きを変え、昏い色をして彼を見下している。
「お前のせいじゃないか。お姉ちゃんは何も
悪くないのにっ!おまえが、おまえがっおまえがッ! 助けなくていい? そんなわけ無いじゃないかっ! 僕の命を懸けて、お姉ちゃんは助けるっ!」
感
情に任せて口を動かす少年の双眸が怪しく輝く。
暴風が再び巻き起こる。否、暴風、等という言葉ではもう表せない。嵐だ。飛散した機器
から起こるスパークが火花を散らすだけでなく、小さい爆発を引き起こしている。
「こんな世界、変えればいいって教えてくれたよね。変
えるよ。あなたの望む形じゃないけどね。……こんな世界、お姉ちゃんを傷つけるような世界なんて、消えちゃえばいいんだからさッ!」
口
元を歪めた少年は空の見えない天を仰いで、一頻り声高に笑うと再び俯いた。
「……そうだよ。消えちゃえばいいんだ。こんな世界、消え
ちゃえばいいんだ」
彼の双眸の光が、収束していく。鮮緑(ターコイズ)よりも弱かった漆黒の輝きも増し、その光は留まることを知ら
ず、彼自身を、部屋を、研究所を包み込んだ。
「みんな……、みんな消えちゃえぇエェェーッ!!」
少
年の叫びと共に、光が拡散した。
それを見たと思った刹那、水元と言う男は光に包まれてその存在を消滅させられた。
光
の拡散は研究所に留まる事無く、地域を、国を、世界を、惑星そのものを包む。
乳白色と呼べるその光。
その光を目
撃できたものはどれだけいるのか。
視界に映ったと認識する頃にはその人物は光の中に溶けるよう姿を消し、またある者は意識を失いその
場に倒れる。無差別に生物は、その数を間引きされていく。建物はその光を受けると唐突に崩れ始め、眠りについていた人々は目覚める事無く光に消えていっ
た。
その時、彼らは何を考えていたのかは、誰にもわからない。光に包まれて消えた彼らにしか、わからない。
光
は、収束して天を覆う。
光と一体化した人々の想いを天に向かわせるかのように。
そして、光が収まったとき。
そ
こには瓦礫の山が広がり、陽光が降り注いでいた地上には光が失われた。
訪れたのは乳白色の光が姿を変えた、果てなく続く曇天。
生
物の意識が、全て失われたその一瞬より。
天からは白く儚い六花が降り始める。
ちらちらと風に舞っていた雪華は、
次第にその量を増やし、瓦礫だらけだった世界を白く、白く覆っていった。
惑星全てを包んだ光は。
無数の人々の想
いを具現化したような儚い雪は。
全てを赦すかのように見えた白は――
――
世界を、滅ぼした。
Last
Chapter. 鈴生リノ、想イ ――World of debris……――
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
目
が覚める。いつもの目覚めのような感覚だが、何処か旅行にでも出ていただろうか。見覚えの無い部屋の中で目覚めた女は、起き上がろうとして頭を持ち上げた
途端に眩暈を起こし、再び先程の体勢に戻る。
(この感覚……血が足りてないのね……)
生理にしてはずれたな、と
近日の日程を思い返そうとして、彼女は気づいた。
「え……あたし……」
自分の名前は覚えている。年齢も、そう来
年で二十歳だ。しかし、それ以外がわからない。まるで、記憶領域から根こそぎ抜かれたように、覚えているものといったらその程度。
「い
や、もう一つ覚えてる……。男の子……。そう、翠色の髪をした……」
独り言を呟いて他に何か手がかりが無いか思考を巡らそうとする
が、貧血で上手く頭が回転しない。
「目が、覚めた……?」
ぼんやりとする視界の先に、眠たそうに瞳を擦る少年の
姿があった。
翠色の髪に、漆黒と鮮緑のオッド・アイ。失った記憶の中で唯一色が付いて残っていた記憶の中の彼だ。
「あ
なた……は……?」
何とか身体を持ち上げ、少年を見る。屈託の無い笑みを浮かべて彼女に声をかけてきた彼は彼女の問いに答えず笑みを
崩さない。
「気持ち悪かったりしない? 大丈夫?」
ころころと表情を変えて彼女を心配する目の前の少年は、本当
にそうだっただろうか。霞がかった記憶ではもっと、無口で、無感情でいなかっただろうか。
自問自答をしていると、少年は彼女が質問に
答えられないほど気分が優れないのだと思ったらしく、おろおろとしだす。その有様がおかしく、彼女は思考を止めて笑んでみせた。
「大
丈夫よ。ちょっと貧血気味なだけみたいだからそんな顔しないで?」
「ホントに? ホントに大丈夫?」
「大丈夫」
ク
スクスと小さく笑って見せると、少年もその頬を緩ませて微笑んだ。柔らかな、自然な笑みだ。子供ながら端正な顔立ちをしている所為か、笑うととても可愛ら
しく感じる。
「あなた、名前は?」
少年に再び問いかけると、彼は笑みを苦笑に変えて首を振り、無いよ、と短く答
えた。名前の無い子供の記憶がある自身に少し混乱するも、彼女は小首を傾げてみせる。
「でも、あたしはあなたの事を少し知ってる気が
するの。あなたは、あたしの事知ってる?」
「チサトお姉ちゃん」
自分の名前を即答する少年に更に首を傾げてみ
せ、チサトは口を開いた。
「あなたはあたしの名前を知っていて、あたしがあなたの名前を知らないって言うのは、おかしいじゃない?
あたし、どうやら記憶喪失みたいだから教えてくれるかな?」
少しおどけて言ってみると、少年は首を下げて俯いてしまう。
「……
昔の名前、嫌な思い出しかないから……」
答えたくないらしい。困ったな、と小さく溜息を吐くと、少年は提案がある、とチサトの腕を
取った。
「お姉ちゃんが僕に名前付けてよっ! そうすれば忘れることは無いだろうし、お姉ちゃんが呼びやすい名前付けてよ」
「そ
んな犬猫に名前付けるのと違うのよ? そんな簡単に……」
「あだ名みたいな感覚でいいからっ!」
真剣な眼差しで
見つめてくる少年に、チサトは嫌だとは答える事ができず、少年の両違いの瞳を見つめ直した。
「付けるにしても、何かヒントが欲しいわ
よね。昔の名前が嫌なら、それでは呼ばないから教えてくれない?」
「絶対? 絶対呼ばない?」
「呼ばないわよ。
嫌がることはしないから」
チサトが見る以上に瞳を覗き込んでくる少年の頭を撫でてやりながら答えると、少年は嫌そうな顔をしながらも
小さく答えた。その名前にやはり少し引っかかりを覚えながらも、チサトはそこからとある漢字を思い浮かべた。
「……ハジメ、なんてど
う?」
「ハジメ?」
漢字の一を指で書く少年に苦笑してみせ、チサトは彼の掌を取る。
「『創
造』の創。これで『ハジメ』。なんか直感なんだけどね。創るって意味も含めてるからそんなに悪い漢字じゃないと思うんだけど……」
気
に入らなかったかな、と曖昧な笑みを浮かべると少年は俯いてしまい、今度はチサトがオロオロとする番だった。
「い、嫌なら別の考える
けど」「そんなことないッ!」
チサトの言葉に間髪入れずに少年が面を上げる。
「そんなことないよっ!
すごく……凄くいい名前だと思う……」
チサトの視界に入った彼の瞳からは、涙が零れていた。泣き出していた少年の頭を再び撫で、彼女
は小さく囁いた。
「なら、もう泣かないで。ハジメくん」
「呼び捨ての方が、いいな……」
そっ
か、と呟いたチサトに身体を預け、創(ハジメ)と名づけられた少年はそのまま眠りについてしまった。
◆ ◆
◆ ◆ ◆
彼女は知らない。
彼が何をしたのかを。
彼女は知らな
い。
彼が彼女の記憶を消したと言う事実を。
彼女は知らない。
世界がどうなっているのかを。
そ
れでも、
彼女達は生きている。
世界は曇天と雪と氷に包まれた。
太陽の光届かぬ、極寒の世界
が彼らのいる部屋の外では待っていた。
光の無い、瓦礫だらけの世界。
暗く、生物が極端に減った世界。
そ
んな世界が待っているとは、この時はまだ知らない。
それでも。
それでも。
彼女達は生きてい
る。生きていく。
それが世界を変えた、彼らの宿命であるから。
世界の生物を、生物の『想い』を間引きした彼らの
運命であるから。
終わり無き旅路が待つ、雪白の世界。
多くの想いが消えていった世界。
彼女
達は、生きていく。
――『鈴生リノ想イ』を背負って、生きていく――
――
了――
(も
しかしたら初の)アトガキ。
ここまで読んでくだ
さいまして、誠にありがとうございます。作者の伴和紗です。
この作品、分割して載せるべきかどうか悩んだのですが、一気に読んで頂きたいと思いましたので1Pにまとめさせていただきました。
ここまで読んでくださっている方は、相当なお時間を取らせてしまったのではないでしょうか。申し訳ありません、そして本当に有難うございます。
作品について。
タイトルから連想されている読者の方々もいらっしゃるかとは思いますが、こちらの作品は今まで『鈴生リノ想イ』シリーズとして書いてきた作品の言わば零(ゼロ)です。
どうしてあんな世界になってしまったのか。
どうしてチサトは創と旅をしているのか。
少しは張っていた伏線が解けたのではないかと思っています。
大学のサークル誌に掲載をさせて頂いてから、早くも数年。来年でようやく卒業となるにあたり、このシリーズも完結させようと奮起しております。
その為には、やはり「始り」を描かなくてはどうしようもない。
創とチサトの出会い。
世界の始り。
そして、この世界は如何に収束していくのか。
今年の秋、完全決着を目処にプロットを立てています。
終わらない物語は無く。
ムリに終わらせる物語にはならぬよう、描いてまいります。
願わくは、一読いただけた皆様の心に何かが残りますよう――
そして皆様に雪原の加護がありますよう――
08/2/25 伴和紗 拝