空気中の水分が凍りつい てしまいそうな、闇夜。二度と晴れることは無いのではないか、と思う程に空は厚い雲が覆いつくしていて、風に流れているのかすらも定かではない。
崩れきった建物が点在す る中、幸運にも全壊する事の無かった建物の一階に明かりが灯っていた。
ほのかに輝く光は電気で はない。そんなものは既にシステムが機能しておらず、旧時代の産物としてその名と遺物だけが残されている。
明かりの源は、炎だっ た。そこらに落ちていた有機物に火をつけ、焚き火をしているのだ。
「冬、か……」
ポツリと呟く年若い男の 声。彼以外には誰もいないのか、応える者は無い。建物が危険で無いかどうか調べていたのだろう、青年は燎火の届かぬ暗闇から出てきて、炎の傍による。手近 な瓦礫に腰掛けて彼は深い溜息をつくと、腰に下げていた水筒の中身を口に含んだ。
飲み下した量は少なく、 すぐに口を離す。
「おいで、タウ」
彼以外に、人間の気配は無い。先刻彼の独り言に応えた者も無かっ た。
だが、
「なんだ、創(はじ め)?」
青年のそれよりも高い少 年の声。そして、誰もいなかったはずの彼の隣に、いつのまにか一頭の獣が腰を下ろしていた。
そ の姿は、犬に似ている。四足歩行で、頭頂部に耳があり、青年に対して尻尾を振るその姿はまさしく犬だ。しかし、あくまでその獣は“犬に似ている”だけだ。 座っている青年とほぼ同じ目線に獣の目線もあり、それは獣が青年と同じぐらいの大きさであることを物語る。また、体を覆う体毛は旧時代の春の日差しによく 似た黄金色。そして、何よりも他の動物と異なるのが――
「水なら昨日飲んだから 平気だぞ?」
――人語を解して話して いる。表情豊かに獣が話すその姿は、傍から見れば異様な光景だろう。 だが、青年にとっては当たり前の光景なのか、別段驚きもせずに獣の言葉に顔をしかめた。
「いくらタウが僕より丈 夫だとしても、体に悪いよ。ギリギリまで我慢する必要はないんだから」
「そういう創だって、ほ とんど水飲んでないだろ?俺の心配をするより自分の心配しろよ。こないだみたく倒れられても運べないからな」
「……キツイ事言うね」
パチッ、と弾ける火花を 見ながら、創と呼ばれた青年は口元をへの字に歪める。
「だいたいな。もう子供 でもないのに無理しすぎるからいけないんだ。体だけが無駄に育った訳じゃないんだろ?ほら、昨日何も食べてないんだから、今日は食べろよな」
「ハイハイ、お犬様の仰 る通りに致しますよ」
「犬じゃない」
犬、と呼ばれたことが気 に食わないのか、今度はタウが口元をへの字に歪めた。だが、創はその事について何も言わずにただ薄く微笑い、水筒とは逆側に下げていた携帯食料を口に含ん だ。
パチ パチ パチ
闇に咲く火花を眺めつつ 食事を終えた創は、傍に置いておいたディパックから長めの物を取り出した。
「冬になると、いつもソ レ出すよな」
火の傍で暖を取っていた タウが鼻を近づけそれの匂いをかぐ。
それは、薄汚れたマフ ラーだった。
もう羊が絶滅しているこ の世界では、生産されることはほぼ不可能となった、毛糸のマフラーだ。
「まぁ、ね……」
「……チサトって奴の、 形見……か?」
静かに微笑うだけの創 は、傍によってきたタウの首にマフラーを巻く。
「何で俺につけるんだ よ?大切なモノなんだろ?」
「大切だから、かな。可 愛いよ、タウ」
何言ってんだ、と呟くタ ウの首筋を掻きながら、創はその漆黒と翡翠のオッドアイを閉じた。
『チサト〜、何してん の?』
蒼穹が隠れて以来、風が 強い日というのが当たり前であったが、この日は珍しく風が穏やかな日だった。流れても流れても延々と続く厚い雲が、この日は何かを見届けるかのように静か に緩々と動いていた。
『これから冬が来るか ら、ね。もっと寒くなる前に作ろうと思って』
火花を散らす焚き火の様 子を見ながら、妙齢の女性は手元を細かく動かしていた。少し離れていたところで女性の行動を見ていた幼いオッドアイの少年は、彼女の傍に近づいていく。
『ねぇ?それ何?』
好奇心旺盛な少年は、器 用に動くチサトの指先から目を離さずに問う。
『出来てからのお楽し み、って奴かしらね』
さほど感情のこもってい ない声で、チサトはただひたすらに細かく指先を動かす。
『今教えてくれたってい いじゃ〜ん』
じゃれ付く子猫のよう に、少年は彼女の背中に回って張り付いた。
しかし慣れているのか、 チサトは別段跳ね除けたり注意したりすることも無く。
しばらくすると肩にかか る重さが増したのを感じ、彼女は手を止めて少年の名を呼ぶ。
『創?』
返事は無いが呼吸してい る音は、耳元で聞こえていた。規則正しく、聞く者の心を和ませる優しい吐息。
顔だけを少年に向けて再 び声を掛けようとした所で、チサトは軽く息を吹き出した。
目蓋を閉じ、幸せそうな 顔で眠る少年の顔が、そこにあった。
『おやすみなさい、創』
自分の肩から下ろし、彼 が冷えないようにバックにいれておいた厚手の布をかぶせると、チサトは再び細かい手作業へと移った。
微かに覚えている彼女の 温もり。目覚めた時には消えていた彼女。
チサトの行方がわから ず、これから自分がどうしたらいいのかもわからない少年に残されたのは、生きるのに必要な道具と知識と、そして――
――毛糸で作られた長い マフラー。
取り残された翌日から降 り出した雪は、彼女がいたという形跡を全て消して、少年を凍えさせ。
彼女が巻きつけたのであ ろうマフラーが、少年の命を救った。
何年立っても忘れること の無い、哀しみに満ちた記憶。
そして、少年だった創が 当ても無い旅を続ける理由。
全ては、もう一度彼女と 会う為に。
閉じていた瞳を開くと、 不安げな面持ちの獣が創の顔を覗き込んでいた。
「なんだい?タウ」
「……別に、何でもねー よ」
照れ隠しなのか、ぶっき らぼうに呟いたタウは創から視線を外す。パチッ、と火花が弾けた。
「……今日は寒いな」
ポツリとタウが漏らす。
「そうだね。……だから ――」
そっぽを向くタウの首に 巻いていたマフラーを半分ほど解き、創は残りを自分の首に巻いた。
「――一緒に寝れば、 あったかいよね?」
「……勝手にしろよ」
「そうするよ」
焚き火の炎を消さず、創 とタウは横になった。丸くなるタウの背中から腕を回し、創はタウにぴったりとくっつく。
「……明日も冷えそうだ からな。風邪引くなよ、創」
「お犬様は心配性のよう で」
「犬じゃない」
他愛のない掛け合い。
非日常的な日常。
淡い炎が照らす中、青年 と獣は互いを感じながら眠りについた。
互いが離れることの無い ように。
――互いに寂しくないよ うに――。
――了――.