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凍てついた大地に見舞われたこ
の世界に、救いはあるのだろうか。
降り止まず、止め処なく風に舞
わされる風花をぼんやりと見つめ、外套に身を包んだその人物は思った。荒れ果てた大地は既に雪原に姿を変えて久しい。時たま現れる地表は、雪白と曇空の灰
色のみに包まれた世界の中で一際その姿を目立たせている。
季節は、凍りついていた。
零度以下の極寒の地と化した、
ニホン。既にその国名すらも人々にとっては必要のないものとなり、記憶から消えていこうとしている。否、人すらもその姿を消して、記憶も世界も破滅へと着
実に向かっていた。
そんな吹雪が荒れ狂う道なき道
を進む人物が、独り。
その背には外套越しでもわか
る、体格より更に大きな荷物が負わされている。降り積もる雪は荷物にもその者にも降り注ぎ、格段に重みを増していた。
ふと先を見やれば、建造物が廃
墟と化して建っている。以前は綺麗に整備されていたのかもしれないが、眼前に見えるのは風すら凌げそうにもない、窓ガラス無き廃墟だった。
そんな廃墟を吹雪の中で胡乱気
に見つめていた人物は、一度頭上に広がる曇天を仰ぐと、その廃墟の中へと向かっていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
カツンカツン、と、無機質な足
音だけが廃墟の廊下に響き渡る。吹雪の中で見えた建物は、見た目以上に奥行きがあり、そこは暖が取れそうなほどしっかりと建っていた。
「……時は、止まってないの
ね……」
ポツリと紡ぎだされた言葉。既
に外套に付着していた雪を払い、彼女は先へと歩む。警戒をしていないわけではないが、知らない廃墟に入り込んだ様子ではなく、どうやら彼女はその廃墟のこ
とを知っている様子だった。
残されている外見では、そこは
以前多数の人間が生活を営んでいたアパートと呼ばれていた建物のようで、彼女はとある一室を前にして立ち止まった。
「表札も、残ってるの、
ね……」
フードを降ろし、中から現した
のは長い黒髪。腰まで届きそうなほど伸ばされ、彼女は鬱陶しげに腕で後ろに払い、髪と同じ漆黒の瞳で無感動に表札を眺める。まだ世界が滅びる以前、彼女が
もっと快活に笑っていた頃、もっと、世界が優しい色に包まれていた頃。
『花房』
表札にはそう記されていた。そ
の後には家主と家族の名前が刻まれていたようだが、削り取られたようにそこはもう読めなくなっている。
「ここに、あたしは前住んでい
た……」
表札を指でなぞり、感慨深げに
溜息を吐く彼女だが、その溜息は壁のすぐ外で吹き荒れている吹雪に掻き消され、後にはしばし沈黙が落ちる。指を走らせて刻まれていた名を読み取ろうとする
が、不明瞭になってしまい、無駄であることを証明するだけになった事を理解した彼女は、そのままずるずると座り込んでしまった。
「……結局、あたしが誰なのか
なんて、名前しか分からないのね……」
自身の名前を声には出さず呟い
て、破壊されていなかった窓越しに空を見上げる。
微かに思い出した、昔の自分。
そして、その居住場を思い出し、感覚だけで辿り着いた。
何か、思い出すかもしれない。
何か、記憶の手がかりがあるかもしれない。何か、大切なものを、思い出せるかもしれない。
そう思い、自身と共に歩んでき
た少年を置き去りにしてきて、幾年過ぎたろうか。
辿り着いたのは廃墟。真っ白に
染め上げられ、霞みがかった記憶の中のものとは全く色合いも雰囲気も変えた、廃墟。
深々と降り荒むは、雪。世界を
覆い、世界から温もりを奪った、憎いもの。世界の荒れ果てた大地を覆い、白一色に染め上げた、美しいもの。掌に乗せれば溶けて消える、儚いもの。
次第に風が収まり始め、踊って
いた雪が重力に逆らう事無く静かに舞い落ちてくる。その姿をただ感情のこもらない瞳で眺めながら、彼女はゆっくりと立ち上がり、ドアノブに手を掛けた。
その先に広がるのは何か。
『親』が生きていて、まだここに住んでいるのか。それとも、この世界になって生まれた新生物達の住処になっているのか。ドアノブに掛けた手に力をこめて
ゆっくりと開きかけ、止めた。
「……今のあたしに必要なの
は、感傷じゃないもの、ね」
(また何か思い出したら、今度は
開いてみよう。)
彼女はそう心中で呟いて踵を返
す。
失われた記憶。
それは、何のためか。
ふと、記憶を探っていたその
時、頭の中で緑色の髪を持った少年が過ぎった。
緑の髪、漆黒と翡翠の、互い違
いの瞳。
「ハジメ……」
歩みを止め、再び窓の外を見つ
める。視界に映るのは白銀の大地と、曇天から降り注ぐ雪。記憶の中の鮮やかな色彩など何処にも無く、彼女は自嘲気味に口元を歪めた。
「いつかまた、会いましょう、
ね……」
誰にともなく呟いた声は廊下に
反響し、消える。再び歩み始めた彼女がいなくなったその場には、再び命の気配の無い静寂が戻り、無音で彼女を見送った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
降り止まぬ白銀
色の無い大地
それは切なく
それでいて美しく
何者よりも儚い。
そしてそれは
命の灯火に似て
似つかわしくない。
記憶を追う者。
彼女を追う者。
彼らを知るものは
願うだろう。
願わくは、彼らに
――雪原の加護あれ――
と。
――了――