黒 と白の垂れ幕が、雨水に晒されている。春と夏の間に挟まれた停滞前線が、例年通り国上に留まり、人々に嫌悪感を抱かせる。自然が夏に備えて落とす雫たち は、路面のアスファルトの色を濃くし、雫たちを落とす水蒸気の固まりは、鈍い色をして青空を人の目から隠す。青空は鈍色の奥に収まって、出て来る影さえ見 せない。
どのような町にも必ずはある、寺院。垂れ幕の掛かった寺の境内も、例外なく色合いを強めていた。人々が嫌う季節の中、寺の中からは大勢の気配がする。門前に立てかけられた故人名に、弔いの垂れ幕。寺の中からは、住職の読む経が響いてくる。
寺は、葬儀の最中であった。
周囲から、鼻を啜って涙を堪えている人々の、声にならない嗚咽が少年の耳を打つ。二十人、三十人、いや、もっとだろうか。とにかく、多くの哀しみに満ちた音が少年の聴覚を刺激した。
――爺ちゃん、好かれてたんだな…。
まだブカブカの学ランを、出来る限りきっちりと身に纏った少年――友貴は、瞳をモノクロの写真に持っていき、そう思った。
写真の中で朗らかな笑みを浮かべているのは、友貴の祖父である宗一だ。物怖じしない性格と柔和な表情、優しげな雰囲気で近所でも人気者だった老人だ。そして、そんな祖父が友貴は好きだった。戦争における、命の大切さといった深刻な問題の他に、将棋や囲碁といった遊びなど、様々な物事を教えてくれ、優しく頭を撫でてくれる祖父が友貴は好きだった。
しかし、宗一は死んだ。日課であった夕方の散歩中に、信号を無視して走ってきたトラックに撥ねられて。全身強打による、内臓破裂。即死だった。
焼 香を終えた友貴は、誰にも告げずに講堂を出た。水分を吸って、心持ち湿った板張りの床を軋ませながら、出来る限り静かに歩く。下駄箱から自分の物である黒 のスニーカーを取り出し、靴べらも使わずに乱暴に履いて、玉砂利だらけの境内に出る。外は雨。アウトドア派の友貴にとって、苦痛の一つといえる天気だ。空 と共に見上げた大黒柱は、それなりの年月を越えてきたのだろう、くすんだ色をしている。昔はもっと鮮やかであったのだろうが今では古びて薄汚れた、ただの 太い柱だ。
一週間前に梅雨入りしてから、晴れた日は宗一の死んだ二日前のみ。蒸し暑い日が続いている。今日も静かな音を立てながら、空からは水滴が幾つも落ちてくる。
友貴は、境内の一画に咲いている花を見る為に屋根の下から離れた。宗一が好きで、友貴が嫌いな花を見る為に。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
宗一が亡くなるなんて思ってもいなかった二年前の同じ時期。友貴は宗一の散歩に連れ添っていた。それ程家が離れていなかった事もあって、友貴はよく宗一と夕涼みの散歩をしていたのだ。
いつもの散歩道を歩いていると、宗一は紫陽花を目にして歩みを止めた。
「綺麗だと思わんか、友貴?」
道端に咲く紫の花を見ながら、宗一は言った。
「綺麗だとは思うけど…、色が哀し過ぎて好きじゃないな。それに、すぐ枯れちゃうじゃん、この花。」
友貴の言葉に、宗一は口元を頬の方に吊り上げる。
「確かにな。この花は、梅雨のこの季節にしか咲かんし、この季節にしか生きられんからすぐ枯れてしまう。だが、そこがいいと思わんか?」
宗一の言葉に、友貴は小首を傾げた。宗一は続ける。
「“はかない”という言葉を知っとるか?」
友貴は小さく頷いた。
「ワシは、紫陽花の花の良さはその“はかなさ”にあると思うんじゃよ。美しさの中にある、物哀しさ。その“はかなさ”こそが日本の美しさなのだとな。」
紫陽花の全てを見るかのように目を細める宗一に対して、友貴は口を開いた。
「でも、この花の花言葉は『非情』なんだよ?情ってのは、僕にはよくわかんないけど、大事なものでしょ?それが無いんだから、いい花とは思えないよ。」
紫陽花を見て、宗一を見た友貴は答えを求める。
「違うかな、爺ちゃん?」
宗一は少し驚いた表情をしていたが、すぐに破顔すると、友貴の頭を撫でた。
「お前は物知りだなぁ、友貴。ワシも、花言葉は知らんかった。だがな、それは違っとるぞ?お前は、紫という色が何を表しているか、知っとるか?」
二度目の問いかけには、友貴は首を横に振った。
「紫というのはな、『亡くなった人の魂を慰める』といった意味を持つんじゃ。じゃから、今を生きる人にとっては『非情』なのかもしれんが、もう死んでしまった人たちには、深い『温情』をかけてくれているんじゃよ。」
そう言い、宗一は顔中にしわを寄せた。祖父のその笑顔を見て、友貴も笑みを浮かべた。
「さて、そろそろ帰るとするかの。」
宗一の言葉は、遠雷が響き、夕立が迫っていることを彼らに知らせたのと、ほぼ同時だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
傘も差さず、友貴は紫色の花と対峙していた。“はかなさ”と、『非情』と、『温情』を併せ持った、物哀しい花と。
「爺ちゃん。あったかいか?この花は、爺ちゃんを慰めてるか?まだ、僕は爺ちゃんがいなくなったって事、よくわかってないけど。寒くない?寂しくない?僕は…。」
不意に、零れ落ちる涙。頬を伝い、ソレは周囲の雫と共に砂利の中へと消えていく。学ランは水を吸って重くなっているが、友貴は構わず言葉を紡ぎ出す。
「…僕は、爺ちゃんがいなくて寂しいよ。寒くは無いけど、自分の真ん中に穴があいた感じ…。空虚って言うのかな?」
紫陽花の葉に、一匹の蝸牛が這っている。ゆっくり、ゆっくりと。
「…まだまだ、教えて欲しい事、一杯あったんだけどね。もう、聞けなくなっちゃった…。」
顔を俯かせていた友貴は、重そうに頭を上げる。その顔は、雨と、涙と、鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「…爺ちゃん、“はかない”っていうのは、花だけじゃないよね。犬も猫も人も…。生きてるものはみんな、“はかない”よね?…でも、それでも生きていくのが、素晴らしい事なんだよね?」
答えは返ってこない。返ってこないとわかっていながらも、友貴は紫陽花に向かって問い続ける。何度も、何度も、何度も…。
降り続くは、雨。零れ落ちるは、涙。幾重も響くは、嗚咽。哀しみに溢れる寺の境内の一画。紫陽花は、静かに全てを見つめていた…。