「ボクは“ダチョウ”なんだ」
喫茶店の片隅で俺、中里伊吹の中学時代からの友人である久遠直は唐突にそう切り出した。既に注文は済まされ、俺と直の前にはコーヒーが置かれている。俺は席に着き、一息ついた。
「急に呼び出しやがって。いきなり何を言いだすんだ、お前は」
部活が午後からあるにも関わらず、俺は朝早くに電話で直に呼び出された。低血圧である俺にとっては、朝は辛い。さらに言わせるならば、そんな俺を呼び出しておいて直は、謝罪もせずに意味不明の言葉を俺に投げかけてきているのだから、腹が立つ事この上ない。
「いつもながらカリカリしてるね。牛乳、飲んでる?」
「俺の事はいい。で、用件は何だ?」
少し前に流行っていた、移り変わりの速い音楽が店内に満ちている。曲調を耳の端に置いておき、俺は目前に座る相手を睨みつけた。
「伊吹…“ダチョウ”って漢字で書ける?」
あらかじめ用意しておいたのか、直は懐からメモ用紙とペンを取り出して俺に差し出す。俺は舌打ちしつつもそれらを受け取り、ペンを走らせて“駝鳥”と書いた。
「こうだろ?」
メモを返し、指先でペンを回しながら俺は言った。直は薄く笑い、俺の手からペンを取る。
「そうだね。さすが高二にして漢検準一級を持ってるだけある。じゃ、なんでボクが“ダチョウ”なのかは、わかる?」
肩を竦めた俺の耳に、先程まで流れていた曲の終わりが入った。サビの部分の賑やかさとは打って変わって、静かなる終焉である。
「少しは考えてよ。呼び出した理由、これなんだから」
不服そうに頬を膨らませ、直は行儀悪く机に肘をつく。そんな表情をする奴に対して大きく溜息をつき、俺はコーヒーを口に含む。
「ったく、俺の貴重な睡眠時間奪っておいてそれかよ。…そうだな、“ダチョウ”は英単語に直すと[ostrich]。これは別訳すると“現実逃避者”とも言える。つまり、お前は自分の事を現実逃避者とでも言いたいのか?」
頭の中に入っていた知識を引っ張り出し、俺は解答と思われるものを口に出す。直は、それまで手をつけていなかったコーヒーに口をつけ、上品に飲み下す。そして、思わせぶりな笑みを浮かべて口を開いた。
「正解って言いたいけど、そこまで深読みする必要は無いよ。もっと簡単に考えなよ」
そこまで言うと、直はいきなり伝票を持って席を立った。
「ゴメン、君がここに来る前に別件が入っちゃってさ。時間ギリギリだから、もう行かなきゃいけないんだよね。代金、全部ボク持ちでいいからさ」
「あっ、オイッ!」
俺の呼びかけに、苦笑いで伝票を振ると、直は会計を済ませて店から出て行った。茫然としていた俺に残された物と言えば、冷め切った薄めのコーヒーと、“ダチョウ”の謎だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
午後の部活は散々だった。俺は卓球部に所属しているのだが、“ダチョウ”の事が気になって、基礎打ちすら間々ならなかった。台の手前で落ちるはずのサーブは全て入らず、スマッシュは台に入るどころか、ホームランボール並の軌道を描いて飛んでいく。三日後に試合が待っている状況としては、最悪と言って良い。何より、今度の試合はダブルスである為、このままではパートナーにまで迷惑をかけてしまう。そう思案していると、そのパートナーである鈴村悠から声をかけられた。
「伊吹ぃ、今日おかしいよ?何かあった?」
ペッ
トボトルを片手に、悠は俺に近づいてくる。弱小と他の部活から馬鹿にされている卓球部だったが、俺と悠のダブルスは別物である。幾つもの賞を取り、少ない
部費をそれ以上、下げられない様に日々精進している。そんな訳もあって、俺と悠はありきたりの親友以上の信頼関係を築いている。
「あぁ、ちょっとな…」
「何?僕に相談出来るなら相談してよ。出来る限り、助けるからさ」
曖
昧な言葉を発した俺に対し、悠はそう言った。一瞬ためらったが、俺一人ではどうにも直の言う答えがでそうも無いので、悠に午前中の出来事を話した。黙って
俺の話を聞いていた悠は俺の話が終わると、今にもその場に座り込んでしまいそうな、脱力しきった顔で俺の顔を覗き込んだ。
「君、馬鹿?」
一語一語を区切り、悠ははっきりそう言い切った。俺はただ、声を詰まらせるだけ。
「あ
のさ、僕としては逆に不思議でしょうがないんだよね。“ダチョウ”なんでしょ?飛べない鳥でしょ?これで良いじゃん。直さん、結構マイナス思考の人だか
ら、“駝鳥”の事を飛べない鳥だから駄目な鳥、『駄鳥』とでも置いたんじゃない?で、私は駄目な人間なんですってアピールしたいんだよ、きっと。悲しいよ
ね、自分をそうやって卑下しないと他人の気を引けないのって」
最後の方は、掻き消えるような声だった。悠も以前、自嘲する時期があった。
「どうせその調子じゃ練習にも身ぃ入んないでしょ?今から直さんのところに行ってきなよ。自嘲する人って、大体は自分の考えている事の四分の一も表に出してないもんだからさ」
悠はそう言って俺に背を向け、後ろ手で手を振ると、他の部員のところへと歩いていってしまった。俺はというと、悠の指示に素直に従って、早々と着替え始めていた。
地下にある練習場を出ると、視
界が夕焼けで溢れた。校庭を茜色に染め、ゆっくりと夕日は沈んでいく。そんな自然の美しさにしばし俺は魅入っていたが、悠に言われた事を思い出し、制服の
ポケットに入っている携帯電話を取り出して直の番号を呼び出す。五回目のコールで電話が繋がった。呼び出す場所は、今朝と同じ場所……。
朝と同じ席に直は座っていた。俺の奢りだと思っているのか、コーヒーの横にはケーキが添えられてあった。
「来たね」
ケーキをフォークでつつきながら、直は俺に微笑みを向ける。
「悪かったな、急に呼び出して」
俺の言葉に直はかぶりを振る。
「別にぃ。で、“ダチョウ”の意味はわかった?」
俺は軽く頷き、悠に教えて貰った『駄鳥』の解答を話す。悠の、直に対する個人的な解釈は抜かしておいたが。ケーキを口に運びながら俺の話を聞いていた直は、話が終わると二、三度拍手をした。
「大正解!悠君は頭が柔らかいんだねぇ」
直はそう言って笑ったが、俺は硬い表情を崩さない。
「何?そんな怖い顔しちゃって」
「…お前、何で自分の事を『駄鳥』なんて言ったんだ?」
沈黙。直は食器を動かすのをやめ、俯いた。俺も黙って直が話すのを待つ。実際には短かったであろう、長い刻が俺と直の間に流れ、直の口から溜息が漏れた時、静寂が破られた。
「何でかって?そんなの決まってる…。ボクが駄目な奴だから。他の鳥は自由に空を飛び回っているのに、駝鳥は一生懸命地面の上を走るのみ。飛びたいと願っても、飛べないものは飛べない、駄目な鳥」
歌う様に、暗い瞳で直は言い切る。いつも能天気な直が俺に初めて見せた、暗鬱の面。そのギャップに戸惑いながらも、俺は口を開く。
「だから、何でお前が駄目な奴なんだ?そこがおかしいんだ。お前が駄目な奴なら、俺も同じだ。それに、駝鳥にしてもそう。別に飛べなくてもいいだろう。鳥類の中で一番速く地上を走れるんだ。空を飛んでいる奴らにだって、走って追いつける」
一度言葉を切って、俺は直の目を見た。しかし、直はすぐに視線を逸らして俯いてしまう。
「それにな、人には別々の道がある。駝鳥も同じだ。だから、お前にはお前の道がある。別に他人と同じじゃなくてもいいだろう」
俺の言葉に、直は俯いたまま緩慢な動作で口を開く。
「友達の多い伊吹にはわからないよ…。ボクも人間だから、寂しくなった時とか、辛い時には誰かしらに傍に居てもらいたい。でも、ボクには友達がいない。友達の作れないボクはやっぱり駄目な鳥、『駄鳥』なん―」
「っざけんなッ!」
直の言葉を遮り、俺は公共の場にも関わらず怒声を上げた。
「友達がいない?だったら俺とお前の関係は何だ!?もう三年以上の付き合いになるんだ。これを友人関係じゃないと言うんだったら何と言う!いいか、お前がどう思っていたのか知らないが、俺はお前と付き合ってからずっと友達だと思っていたぞ!」
一息でぶちまけ、荒い息を吐く俺に呆然としていた直だったが、突然両の目から涙を溢れさせた。
「伊吹……、ゴメン、ゴメンね……。ボクが、馬鹿だった……。ゴメンね。言ってくれて、有難う……」
涙を止めない直の肩を、俺は黙って叩く。
俺達以外に客の居ない喫茶店に、朋人の存在に気づいたダチョウの嗚咽が静かに響き渡る。泣き止まないダチョウは、朋人にすがりつきひたすら瞳から雫を零し続けた。天空と地上、異種の鳥達が併走を始める…。