遠雷

 

 

視界に広がる空は蒼いのに、ふと後ろを振り返ると真っ黒な入道雲が控えていた。山々に囲まれた小さな村を、覆いつくさんばかりの大きさであるのが遠めでも分かる。

夜になるとほとんど街灯が無い為に辺りが真っ暗になってしまうような田舎道を、少年は幼馴染の少女と歩いていた。少年が足を止めて雲を見やると、少女が胡乱気な瞳で声をかける。

夏月(なつき)ちゃん?どうかした?」

「ん?いや、なんでもないよ」

毎 日毎日暑いよね~、と愚痴をこぼす幼馴染に微笑みかけ、再び並んで歩く。狭い道に二人で並んで歩くと、追い越しやすれ違いが出来ないのだが、夏休み期間 真っ盛りの昼間に好き好んで出歩いているような物好きは、そうはいない。だから、道の前方を見ても後方を見ても人影は彼ら二人分しかなく、爛々と照る太陽 だけが二人を見ていた。

「夏月ちゃん宿題終わった~?あともう二週間無いんだよ、夏休み。早いよね~」

「毎日遊んでればそりゃ早いでしょ。宿題はあと読書感想文だけ」

「え~!?何でそんなに早いのよ!英語なんか二十ページぐらい出てたじゃないっ!」

辺りに響き渡るのも構わずに、少女は大声で夏月の肩を掴む。

「あたしの宿題少し手伝ってよー!何にも終わってないのーッ!」

ぐらぐらと揺さぶられ、夏月の視界が歪む。辺りで羽を休めていた鳥たちが、少女の声に驚いていっせいに蒼穹へと飛び去っていくのが少し映った。

「ちょっ、麗奈(れいな)吐く、吐く手伝うからっ!は、離してってばっ!!

「よっしっ!これであたしの成績も安泰っ」

夏月の悲痛な叫びはどこへやら、麗奈は自分の手を胸の前で組み、電線の無い空を見上げている。脳をかき混ぜられたかのような感覚に思わずしゃがみこんだ夏月など、彼女の目には映っていない。

「……と、とりあえず今日は帰ろう?なんか雨降りそうだし……」

自分自身の不甲斐無さを内心で嘆きつつ、夏月はゆっくりと立ち上がる。

黒雲は先程よりも迫ってきていて、雷鳴が二人の耳を打った。夏月と同じように後ろを振り向いて入道雲を見た麗奈は綺麗に整えられた眉を少し(ひそ)める。

「確実に降るわね、アレ。じゃあ、帰り際にノートだけ借りてくわよ?」

ノートを借りるだけじゃないなら他に何をするつもりだったんだ、という疑問を胸の奥底にしまいこみ、夏月は麗奈を促して蝉時雨の降る道中で深いため息をついた。

 

 

麗奈には英語のノートを貸そうとしたが、夏月が普段筆記体を使っている為に、読めない、と突っ返されてしまった。仕方ないので、とりあえず数学のノートを“丸写ししない”という条件の下に貸し出した。

……丸写ししないかどうかは果てしない不安が残るが。

黒雲は、いよいよ怪しく空を覆い始める。家の縁側に腰掛け、夏月は白雲と違って重さを感じる黒雲を眺めていた。側には彼が取り込んだ洗濯物の数々が無造作に置いておかれている。

夏月の家は、都会では絶対に見る事の出来ないような大きな日本家屋だ。四季折々の花が集う庭は彼のお気に入りであり、側の縁側に座って花を見るのが好きだ。しかし、今の彼は花を見ていない。ただ、空を見ている。

「おや、帰ってたのかい?」

上ばかりを見上げていると、背後から声をかけられた。

「うん。雲行きがおかしかったから。洗濯物、取り込んどいたよ」

祖母だ。手ぬぐいを首からさげ、流れ落ちる汗を軽く拭っていた。両手には丸々と太った買い物袋。夏月は興味本位で口にする。

「今日の晩御飯、何?」

「何でも良いやろ?それとも、バァバの御飯は食べられんかね?」

自分のことをバァバと呼び、祖母は軽く笑った。夏月も軽く笑い、そんなことないよ、とだけ言う。

「それじゃ、御飯の用意するから。なっちゃんも自分の事、やっときんしゃい?」

 それだけ言うと、祖母は重たい荷物をそう感じさせない足取りで台所のほうへと消えていった。

夏月は視線を空に戻す。(ひと)(しずく)、夏月の目が捉えた。

ポツ、ポツ、という音が聞こえ、地面の色が濃くなったかと思ったら、途端に乾いた土が消えていく。

 

雨だ。

 

熱かった空気は冷え、湿り気を帯びる。夏月は静かに瞼を閉じ、雨を肌で、耳で、鼻で感じようとする。汗ばんだ肌に、また別に張り付くような湿り気と、瓦葺(かわらぶき)の屋根と地面を叩く多くの雫と、鼻の奥まで届くけたアスファルトの香り。

全 て、幼い頃の記憶と一緒だった。何年前の記憶なのかは、夏月は覚えていない。ただ、大きめの麦藁帽子を深く被った色の白い綺麗な女性と手を繋ぎ、この家に やってきた時の記憶だ。その時も自分たちの後ろから黒い入道雲が迫っていて、急ごう、と女性に促されたのを覚えている。

 

 

『それじゃあ、お願いします……』

夏月の祖母の家に着いた若い女性は、老婆と顔を合わせると夏月の手を離さずに深々と頭を下げた。祖母は何も言わずに、女性が握っていなかった方の夏月の手を取る。小さな紅葉のような手が、固く強張っていた。

『なっちゃん、怖がるこたぁないよ。これから、ちょっとの間バァバと一緒にこのおうちに住むだけだから』

重たい雰囲気に、思わず体が固くなってしまった夏月に、祖母はしわだらけの顔をさらにくしゃくしゃにして微笑う。

『ちょっとって、どのくらい?』

祖母の大きな目に視線を移し、幼い夏月は問う。

『ほんのちょっとだぁよ。それとも、なっちゃんはバァバんちが嫌いかい?』

少し寂しげな表情をした祖母に、幼い夏月は首を何度も横に振る。そんな仕草に祖母は笑い、視線を女性に戻した。

女性が何か言おうと口を開く。

 

――ピッ ピッ ピッ 

 

彼女の手首に付けた腕時計から、甲高いアラーム音が突如鳴る。

『すみません……。もう、時間が……』

夏樹の手を固く握り締めたまま、女性は硬い声で呟く。家の中に入っても外さない帽子の奥に隠された瞳は、夏月には全く見えなかった。また、彼女も夏月のほうに視線を送ろうとはしない。

ただ、握られた手から、女性の体が震えていることはすぐに知れた。

『……あたしゃ、あんた達のやろうとしてることには賛成できん。小さい自分の子供を人に預けてまで、するようなことかね?』

口調は勤めて冷静に、しかしながら冷たい視線を老婆は女性に向ける。その視線を受け止めきれずに、女性はさらに帽子を深く被り直した。

『それじゃあ……よろしく…お願いします……』

それまで固く握っていた夏月の手を離し、彼女は体を外に向ける。唐突に離された手を、夏月はもう一度握ろうと縋る。しかし、彼女は夏月に視線を向けようとしない。

 

一歩、彼女は踏み出す。そして――

 

ポッ ポッ ポッ

 

小さな音と共に黒雲から落ちてきたのは、雫。彼女の行く手を阻むかの様に、それは息つく間もなく激しいものへと変わっていった。

だがそれでも、彼女は前に足を踏み出す。

夏月は、動かない。

否。

動けなかった。

祖母が握る手の力が強く、抗えないのだ。

しかしそれでも夏月は、一歩女性の後を追う。気づくはずもなく、彼女は白雨の中を進む。

『ぉ……さん……っ』

夏月の口元が震える。言葉が、うまく紡げない。

再び、前へ。

『おか……さん…ッ』

さらに一歩、夏月は前に出る。祖母に握られた手はそのままに。いつの間に出来たのか、足元にあった水溜りに足を突っ込み、パシャリと音を立てた。

女性が、その音に振り向く――。

 

 

 

「おかあさんッ!」

 

自分の発した声の大きさに目を覚ます。いつの間にか夏月は、体を横たえて眠ってしまっていた。

「あ……オレ……?」

参ったな、と一人呟いて体を起こしながら頭を掻く。

母親と別れたのがもう何年前なのかは、しっかり数えないとはっきりしない。今の生活が普通となっている今、今さら母親などどうでも良いはずなのだが。

「……あ~……これだから麗奈に女々しいとか言われるんだよな……」

ふぅ、 と溜息をつき庭に視線を移す。祖母が育てている鳳仙花の赤い華が目についた。数年前まで、この庭の夏の花としてその赤い花を幾つも咲かせていた鳳仙花は、 今は夏月が見ている物だけになってしまった。子供の頃、よく花に触れてその種子が弾けるのを楽しみにしていた事が、何故かひどく懐かしく感じる。

「……母さんが好きだった、のかな……」

眠る前まで降っていた雨は小降りになり、しとしとと屋根から雫を零す。夏月の声は雨音に紛れ、虚空に掻き消えていた。

ふと、夏月は裸足のまま庭に下りた。足裏から伝わる泥の感触が、冷たくも懐かしい。

「……仕方なかったんだよね……?」

顔を上げ、雨粒を受けながら夏月は小さく呟き、さらに両手を目一杯に伸ばした。

 

天には届かないと知っていながら。

届かない想いがあると知っていながら。

 

瞳を閉じてただそうしていると、雫が頬を幾つも伝い流れる。雨粒なのか、涙なのか(はた)から見てもわからない。

夏月本人にも、わからない。

 

「なっちゃん?すまんが手伝ってくれんかぁ?」

祖母の呼ぶ声に、すぐ行く、と返すと、夏月は腕を下ろしてその濡れた掌を見つめた。健康的に焼けた肌の中でも、掌と言うのは色を変えていない。血の通っている、薄桃に近い手が水で濡れそぼっていた。

「……僕は、強く生きるよ。夕立に打たれても折れる事の無い、うちの鳳仙花みたいにね」

誰に言った、と言うわけでもない独り言。それを聞いていたのは庭の花々と、空を通り過ぎる黒い雲だけ。

次第に晴れ間が見え始める。否、晴れ間ではなく――

「赤くて、綺麗だね……」

――夕焼け。

過ぎ去った日々、来るべき日々、そして現在(いま)。赤紫の空を見つめる少年は、現在を生き抜くことを心に留めてそっと自らの頬を拭った。

――了――

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