季節という概念は、とうに崩れ去った世界。灰色の雲が世界を覆い、 太陽の光は朧月夜のように薄汚れた。“町”という集落も片っ端から崩れ去り、世界はいまやガレキだらけの塵界となっている。
「チサト〜。これ、何?」
今にも崩れそうな廃屋の中、まだ声変わり前の幼い少年の声が辺りに 反響する。
彼の傍には外套を羽織り、備えられたフードを被った人影があった。
ガラスの割れた窓からは、薄暗い光が差し込んでいるが、フードの中 は見えない。
少年はさらに人影に近づき、その手に握っていた物を掲げた。
それは、瓶だった。
蒼いガラスで作られ、ラベルの文字が読めなくなっている、瓶だ。
「色ついてて、綺麗だよね〜。チサト、何だか分かる?」
人影は被っていたフードを脱ぎ、その顔を晒す。
「ちょっと、いい?」
現れたのは、妙齢の女性だ。肩口で切られた髪を手で後方へ追いや り、少年が掲げていた瓶を受け取った。
瓶の中には、小さなガラス玉が入っている。軽く振ると、甲高い音を 立てて中で揺れた。
「これは、ラムネの瓶ね……」
少年は首をかしげる。聞き覚えの無い言葉だった。
「貴方の生まれるずっと前にあった、飲み物。ただ、それだけのもの よ」
チサトは感慨深いわけでもなく、無表情に言い切る。そして少年に瓶 を返した。
「早く出ましょう?いつ崩れてきてもおかしくないんだから」
少年の手を取り、チサトは廃墟を後にしようとする。
しかし、
「もう少しだけ!こんなに綺麗なものが出てきたんだもん、まだなん かあるかもしれないよっ」
少年はチサトの手を振り払い、再び奥へと進む。風化したコンクリー トが、彼が歩くたびに砂状に変わっていき、かろうじて空間を作っている柱もいつ崩れてもおかしくない。だが、珍しいものを見つけた少年の好奇心を、簡単に 抑えることは出来ない。
「創、 死んじゃうかもしれないのよ?他の所に もあるだろうから、早く行きましょう?」
チサトは出来る限りコンクリートを崩さないように、足元に気をつけ て歩く。
「大丈夫だよ〜!」
根拠のない言葉が、響く。無闇に動き回る体が、石材を崩す。そして ――
崩壊が、起きる。
「創ッ!!」
唐突に崩れ落ちる瓦礫の真下にいた少年の名を叫び、チサトは駆けな がら手を伸ばす。少年も上方の異常に気づき、チサトのほうに駆け出す。
手が届く。指を絡め――られなかった。
「チサトッ!」
床が、抜けた。脆くなったのは建物だけではなく、地面にも異常をき たしていたのだ。
奇妙な浮遊感を覚え、チサトの体は漆黒に包まれた地の底へと消えて いく。
「チサトーッ!!」
創の叫びは、瓦礫の立てる音に掻き消されていった…。
(暗い)
第一印象は、それだった。チサトは闇の中で一人浮いている。自分の 体の感覚が無く、蒲公英の 綿毛のように空気に身を任せているといった感じだ。
「あたし、死んじゃったのかな」
感情のこもらない声で、ただ一人呟く。
体の感覚が無い以上、自分自身がどうなっているのかもわからない。 ただ、目で追う限り、自分の体がどこかへと移動しているのはわかった。
「創、大丈夫かしら……」
今日の夕飯は何にしよう、とでも言うかのように、軽く呟いた。
彼女は、“感情”というものの大半が欠落している。
今、彼女が持ち合わせている感情は『驚き』と『心配』、それだけ。 勿論、空腹などといった生理的欲求も感じることは感じるが、それとこれとは別のようだ。
「あ……」
不意に光が溢れ、その眩しさに思わずチサトは目を閉じる。灰色一色 になってしまった空からは、一生見る事ができない程の強い光。
光が、次第に弱まる。
瞼を開けたチサトの眼前に広がったのは、蒼穹だった。遥か彼方に人 間が置いてきた、旧時代の色。鮮やかで、人の心に残る、言葉で表すのが困難な色。
「……いったい、何?」
チサトは呟いたが、応えなど返ってくることは無い。
視線を蒼から外し、辺りを見回す。そして、彼女は気づいた。
電線の無い、緑の多い、蝉時雨の響く、自分の故郷の公園に立ってい ることを。
「……走馬灯が、実体化でもしたのかしら」
表情に出さず、驚く。心を落ち着けて辺りを観察すると、周りは新緑 に囲まれ、ベンチには仲の良さそうな老夫婦が座っており、別方向には鐘を手にしたラムネ売りの屋台がある。そして、開けた空き地では子供たちが健康的な肌 を晒しながら走り回っていた。
後 ろで髪の毛を束ねた少女が、白黒に彩られたボールを蹴り、地面に描いたゴールに向かって蹴りこむ。得点を入れられるのを防ぐ少年が、ボールをキャッチしよ うとするが、ボールは触れられること無く引かれたラインを割り、転々と転がった。周りから歓声が上がる。それほどまでに見事なシュートだった。
転がったボールはチサトの足元で止まった。はじめはただ見ているだ けだったが、ゴールを決めた少女が自分のほうに来るのを見て拾い上げる。
「ありがとう、お姉ちゃんっ!」
快活に笑う少女にただボールを渡し、チサトはその場を離れようとし た。薄汚い外套を羽織った彼女にとって少女の姿は、あまりにも眩しく感じたのだ。
「お姉ちゃん、不思議な格好してるね〜?あ、もしかして旅人さ ん?」
チサトの外套に触れ、少女はその大きな瞳を彼女に向ける。ころころ と表情の変わる、漆黒の髪と瞳を持ち合わせた可愛らしい子だ。
チサトは少女の形の良い頭を無言で撫でる。初めは撫でられたことに 少し驚いた表情をした少女だったが、すぐに目を細めて笑った。穏やかに、心地よさそうに。
「千郷ー!何してんだよ、早く来いってッ!」
先程ゴールを決められた少年が、少女の名を呼ぶ。
“チサト”と。
「呼ばれちゃったから、あたしもう行くね?お姉ちゃん、拾ってくれ てありがとう!」
終始笑顔を絶やさなかった少女は、手に持っていたボールを仲間たち の方向へ高々と蹴り、駆け去っていった。
チサトの周りが、急に静かになる。近くにいるラムネ売りのベルだけ が、リン、リン、と規則的に鳴らされていた。
チサトの足が、知れず音のほうへと向く。無愛想な屋台の店主に、い つの間にかポケットの中に入っていた、現実ではもう価値のなくなってしまっている百円硬貨を三枚ほど渡し、氷の浮いた水槽の中から冷えた蒼い瓶を取り出し た。
幼い頃に何度も飲んでいたので、独特な開け方も体に染み付いてい た。ポン、という小気味の良い音と共に中の液体が溢れ出てくる。液体が手を伝うが、気にせずに瓶口を口に持っていく。
「……甘い……」
自分の記憶と変わらない、甘い味。自覚の無かった喉の渇きを癒して いく。そして、幸せを感じさせる清涼感。
チサトは空を見上げた。白い光を輝き放つ恒星がそこにあった。
――暑い――
何年も忘れていた言葉を彼女は思い出し、瞳を閉じた。まぶたの裏が 赤い。光を通じて見える、自分自身の生きている証。意識を全てそちらにやる。
遠い遠い昔の、自分が好きだった空気を、チサトは胸一杯に吸い、吐 き出した。
(あたしも……笑える人間だったのね……)
蒼い瓶は、陽の光を受けて水面の様な輝きを残した。
創は、 慎重にガレキの中を進む。 チサトが落ちた場所に大体の検討をつけ、彼女を探す為に。暗い、陽の光の無い世界のさ らに奥へ。
創は、一人ぼっちだった。彼の記憶の初め、5歳の誕生日を迎えた頃には父と母がおり、チサトの姿は無かった。し かし、世界が崩壊した時に二人ともいなくなった。 消えてしまった。そして不安で堪らなく、泣き叫んでいるところに彼女が現れた。
――泣かないで?あたしと一緒に行きましょう?――
何処に、などとは聞かなかった。ただ、縋る温もりが 欲しくて手を伸ばした。
「チサトがいなくなったら……やだよ……」
自分が馬鹿なことをしなければ、彼女のいうことを聞いていれば。
悔恨の思いはただ募る。
廃墟の崩落が起きてから幾時が過ぎただろうか。創は疲れきって座り 込んでいた。足が棒のようになって動かすのだけでも辛い。
「チサト……姉ちゃん……」
数年前までの呼び名が、無意識のうちに出る。絶対にチサトから離れ ようとせず、ひたすらその手に縋っていた頃の呼び名が。
「チサト……お姉ちゃん……」
膝を抱え、唇を噛む。涙が溢れ出そうになるのを必死に抑えていた。
その時、
「その呼び方は、やめたんじゃなかった?」
背後からの、聞き慣れた声。心臓が跳ね上がり、振り向くことが出来 ない。
「まさか、死んだとでも思ったの?あたしはそう簡単には死なないわ よ」
淡々とした物言い。紛れも無い、彼女。創の瞳からは抑えていたもの が溢れ、息が詰まってうまく呼吸が出来ない。
「ほら、こっち向きなさい。もう、こんな暗いところにだっている必 要ないんだから」
静かに歩いてくる、音。俯いたままの少年の前まで周り、彼女はしゃ がみ込んだ。
「あたしは、ここにいるわよ?」
その言葉に、創の口から嗚咽交じりで彼女の名前が紡がれる。
チサト、と。
外套にしがみ付いた創の頭を撫で、チサトは夢の中で思い出した表情 を表に出す。泣きつく彼は、後に見る彼女の表情に驚くだろう。
――チサトが笑ってるっ――
と。
廃墟の外は、灰色の世界だ。
蒼穹の世界は、チサトの生きている間にはもう来ないのかも知れな い。だが、チサトは創の手を取りながらただ心の中で呟く。
――願わくは、創の持つ蒼い瓶が再び現れる世の中になるように――